buch | ナノ


 それから何が起きたかというと、特に何も起こりはしなかった。

 死ぬほど気まずい数秒間をやり過ごしたあと、なまえが苦し紛れにひねり出した「ケーキでも食べに行かない?」という提案に、ルートヴィッヒが「妙案だ」とうなずいた。それでおしまいだった。
 彼は結局、遅刻の理由についても、履き古しのスニーカーについても尋ねることをせず、むしろもういいと釘を刺すばかりだった。もちろんその親切を愚直に受け入れるわけにもいかず、見た目よりも可愛くはない脂肪含有量のケーキをここぞとばかりに注文し、支払いは自分がするとなまえは宣言した。「今日は誕生日だから」とジョークを云ったら本気にされてしまい、誤解を解くよりも笑ってしまった。

 デート云々のくだりは暗黙の了解で、ふたりとも敢えて触れなかった。


 *


「だって、話を聞かされたときに初めて会ったんだもの。旅行先で突然、一回りも年上の兄ができるって云われた気持ちが想像できます?」
「……いいや。それで、どうしたんだ?」
「ブチ切れたわよ」

広場からほど近いカフェは、この時間帯でもそれなりに混雑している。風が強いせいか、テラス席に座る客はまばらだ。紙ナプキンが飛ばないようにそっとカップを持ち上げると、なまえはフンと鼻を鳴らした。高級そうな料亭を震撼させたことは、できれば消し去りたい過去である。

「もちろん私がわめいたところで、どうしようもなかったけど。再婚は大学で家を出てからだから、義父に会うこともそんなになくて。日本にいる義兄にはもっと会わないし」

ふむ、と呟いたルートヴィッヒも、少し冷めかけのコーヒーを飲んだ。相変わらずのきれいな青い目を揺らして、生真面目に相槌を打っている。まるきり以前と同じ景色だ。――要するに、自分は心底意識されていないのだな、となまえはここへ来て明確に理解したのだった(彼が聖人か変態かは別として)。意外にもショックより、あれだけ煩悶したのは何だったのかと逆に胸がすくような、もっと云えば安堵すら覚えた。そもそも恋愛感情を自覚して、それから先、どうこうしようというつもりはなかった。ただ、あまりにも自分のばかさ加減にいたたまれなくて、開き直って確かめたかっただけだ。友達としての関係を続けられるのならば、混ぜっ返すべき理由などない。そういった意味では、フェリシアーノのアドバイスは的確だったと云えよう。

 「これからどうする。飲みにでも?」

悲しくなるほど何のてらいもない誘いに、なまえは首を横に振った。

「一杯飲むためならなんだってするって答えたいけど、その義兄、今うちにいるんですよ。義父と母の家に泊まるのだけは嫌みたいで」

なぜかルートヴィッヒは思い切りむせた。

「大丈夫? 彼、ものすごい人見知りで、言葉もあまり分からないから。ひとりで追い出したら、母の狂気じみた電話攻撃を受けるのは目に見えてるし」
「……そうか。ホテルを探すのを手伝おうか」
「ううん。最悪、一晩くらいならソファで寝てもらう」

それはどうなんだ、とでも云いたげな顔をした相手に、なまえは砂糖漬けのフルーツが乗ったケーキを押しやった。


 

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