buch | ナノ


 世界時計の見える広場に、男が立っている。

 伸びた背筋に地味なジャケットを着て、金髪をきちんと撫でつけて。横顔から表情は読み取れない。観光客や駅の利用者がその姿を覆うように行き交っているが、なまえには彼ひとりがぽつんと立っているように見える。この瞬間ばかりは、スニーカーを履いていてよかったと思わずにはいられなかった。もつれそうな足で広場を駆けるなまえへ、何人かがもの珍しそうに目を向けた。そして、彼も。


「ルートヴィッヒ!」


驚いた彼が何かを云う前に、なまえは手を出して制止した。息を整えようとするが、うまくいかない。

「ごめんなさい。こんなに遅れて、連絡もできなくて」

見下ろす青い目が怒っているのか、呆れているのかは分からなかった。数秒というには長すぎる沈黙のあと、相手は確かめるように「うん」とうなずいた。

「メールの返事がないし電話にも出ないから、何かあったんだろうと。あと10分したら家まで行くつもりだった」

「行き違いにならなくてよかったな」と落ちつきはらった態度で云うルートヴィッヒを、なまえは、ぽかんとした顔で見つめた。携帯電話を忘れて連絡も取れず、泣きはらしのひどい姿で、スカートの裾はぐしゃぐしゃ、足にはハイキングならば最適であろうくたびれたスニーカー。これ以上のボーナスはないほどの大遅刻をかました相手に、ここまで寛大な態度を示すことができるのは、聖人か変態のどちらかだ。

「なんで、怒らないの」

落ちてきたぐしゃぐしゃの髪を耳にかけながら、なまえが力なくそう尋ねた。

「怒ってはいない、心配はしたが。怒ってほしいのか?」
「違うけど」

ルートヴィッヒは、さも不思議そうに眉を上げた。

「違うけど……もう、待っていないと思ったから」
「なぜ?」
「だって、あなた前に云ったもの。時間を守らない人間は嫌いだって。相手を尊敬していない証拠だって」
「だから理由があると推測した。まあ、待たされるのには慣れているし」

ぼそりと呟いた言葉の後、彼はなぜか照れたように頬をかいたが、詮索するほどの余裕はなまえにはなかった。

「だけどデートに遅れるなんて、どんな理由があったにせよ最低でしょう?あなたに怒る権利はあるし、だから私にも謝り倒す権利ってものがあると、」

思うけど、と続けようとしたなまえの視界には、先ほどの自分に輪をかけて唖然とした表情のルートヴィッヒがいた。彼はまるでコンピュータがフリーズするように、完全に固まっていた。なまえのバカさ加減にいよいよ呆れ返ったのかもしれないし、時間差で頭に血が上ってきたのかもしれない。若干顔が怖いし、うっすらと肌に赤みが差しているように見えなくもない。いつだったかこんなふうに、耳から首にかけて朱に染まる姿を見た記憶があるが、あれはいつのことだったろうか。

「――ちょっと待て。これはデートだったのか?」

思いがけないほど切迫した声に、なまえはふと我に返った。

「は?」
「これはデートの約束だったのか、と聞いた」

お互いに、こいつ一体何を云ってるんだ、という顔をしていたと思う。

「ええと、なにそれ。どういうこと?」
「そうは云わなかっただろう」
「云ってないこともないと思うけど」
「いいや、俺は聞いていない」

死ぬほど怪訝な顔で立ちつくす二人の耳に、リズミカルなクラクションの音が響いた。少し離れた先に停めてあるタクシーの運転席と後部座席から、合計で4つの親指が飛び出している。それは明らかにこちらへ向いていて、なまえはできることなら今すぐ彼らに死なない程度の呪いをかけてやりたくなった。

「……知り合いか?」
「いいえ、ぜんぜん知らない。人違いじゃないかしら」


 

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