buch | ナノ


 思春期のティーンぶりも、いよいよ最高潮だ。まぬけ・注意力散漫・情緒不安定の三拍子がそろって、今にもコインがあふれてきそうだった。そんな状態のなまえに一瞬さすがにぎょっとしたようだが、菊は冷静にハンカチを差しだした。そうして小さな声で 「Guten Tag. (こんにちは)」と云った。

「あの、お迎えを、ありがとうございます」

なまえは返事の代わりに、濡れた目をしばたたいた。ぎこちなく言葉を繰りだす彼のもう一方の手には、やたらとファンシーな絵のついた会話集らしきものが握られている。

「ええと、天候のせいで飛行機が遅れまして。ですから私も、さっき着いたばかりで……」

まただ、となまえは思った。以前にも彼はこんなふうに"空気を読んだ”のだ。思いだしたくもない記憶が蘇り、うつむいた先のキャンバス地に水分がぼたりと落ちてゆく。そこでなまえはあらためて、自分の履いているものをまじまじと見つめた。くたびれた古いスニーカーである。

 倦怠感と絶望感が、音をたてて襲ってくる気がした。

「Der vierte(よっつめ)」

ぐず、とひとつ鼻を鳴らす。なまえは生きとし生けるすべてのものを少しずつ呪いながら、「え、今なんて?」と控えめに尋ねる菊へ向き直った。そうして腹が立つほどきょとんとしている彼の腕を掴むなり、ゆっくりと、かつ高圧的にこう告げた。

「――なにも聞かないで、黙って、着いてきて」

「それと英語でいいです」という地を這うような声に、片頬をひきつらせた菊は行儀よくうなずいた。


 *


 タクシー乗り場は長い行列で、ふたりが乗り込むころには、14時まですでに30分を切っていた。真っ赤な目で行き先を告げるなまえと、苦笑を張りつけた菊とを交互に見た運転手は「修羅場だな」とつぶやいた。

「どうせ、あの人から色々吹き込まれたんでしょう」

長すぎる沈黙のあと、口火を切ったのはなまえだった。義妹の理不尽な命令を律儀に遂行していた菊は、戸惑いがちにこちらを向いた。

「あ、お母さんですか。お変わりありませんか?」
「少しは変わってくれたらいいと思うわよ」

なまえがハンカチで鼻をかみながら呟くと、彼は苦笑して頬をかいた。襟口から日に焼けていない肌がのぞく。なまえの一回りは年上のくせ、いつ見てもまるで子どものようなその外見を横目で一瞥し、小さくため息をついた。気分が落ちついてくると、先ほどの醜態――あれこそ完全にパニクった子どもそのものだ――を思い出して、地中深くに埋まってしまいたくなった。幸運にも空港で誰かが泣く光景は珍しくもないが、どう考えても正気の沙汰ではない。やはり、何かに呪われているのだ。

「ごめんなさい。さっきはあんなふうに、」

不本意さを隠しもせず、なまえはそっけなく云った。

「取り乱したりして。ちょっとタイミングが悪くて、ひどい精神状態なんです。べつに私、あなたが嫌いなわけじゃないけど。ほんとに、こんなはずじゃないのに、何もかもうまくいかないし……」

こぼれた愚痴は途中から母国語に戻っていたらしく、菊は微妙に眉をよせている。なまえは考えるように窓の外を見てから言葉を探したが、やがて面倒になり、英語で「It's the time of the month.(生理中なので)」と云った。

「あー、お客さん、アレクサンダー・プラッツまで?」

微妙に居心地の悪い2度目の沈黙を破ったのは、今度は運転手だった。そう伝えたはずだとなまえがミラー越しにうなずくと、運転席から伸びるずんぐりした指が、前方にずらりと並列した車群をさした。

「まいったね。降り口で事故があったみたいだ」
「待ってよ、冗談やめてくれる?」

相手は肩をすくめると、ポケットから出したチョコレート・バーをむしゃむしゃ食べはじめていた。ステレオから流れる能天気な歌を背に、なまえは自分の唇から断末魔の悲鳴のようなうなり声が漏れたのを聞いた。


 

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