buch | ナノ



 やはりと云うべきか、母とは電話で口論になった。

「そうやって勝手に決めるのやめてよ。私には私の生活があるのに。ソファで寝るなら実家だって同じだし、だいたい私からすれば他人の、しかも、男なんだけど!なんでホテルを取らないわけ?」

電話を片手に寝室をうろつきながらクローゼットを掻き回せば、なるほど、たしかに"誰か"を連想させるような青い色の服ばかりだ。いつの間にこんなに増えたのか分からない。

「それに云っておきますけどね、私たち、ぜんっぜん仲良くなんかないんだから!」

『この機会にそうなったら?』などとにべもなく云う母に、なまえは怒りを越えて脱力した。まったく、どうしてこの人は、必要なことを肝心なときに云わないのだろう。なまえはいつだって、あとから知らされた事実を飲みこむしかない。"身勝手さ"と"うっかり"の同居する母に悪気はないのだけれど、だからなおのこと質が悪い。

「……とにかく、土曜は無理だってば。私、デートだし」

なまえとて、あっさり降伏してしまうほど合理的でも素直でもないのだが、母はなまえに対して有効な呪文をよく心得ていて、『Mein Schatz!(ダーリン!)』を繰り返すことでたいがい押し通してしまうのだ。すでに決定事項を覆せるわけがないことは、分かっていた。

『午前中の飛行機だもの、大丈夫よ。朝からデートってわけでもないでしょう?』

これは、はじめから負け戦である。

 *

 そうして来たるエックス・デイ、なまえは愚にもつかぬ3大ミスをやらかした。

 ひとつ。なまえがベッドで目覚めたのは、本来アラームが鳴るべき時刻の2時間後だった。寝つけないからと、クリスマスに実家からくすねたラム酒をあおりまくったせいだ。

 ふたつ。あえて青い色以外の服を選ぶことに執着するあまり、直前まであれやこれやと着替えていたのがまずかった。ジーンズのポケットにねじこんだ携帯電話を、まんまと忘れたのだ。

 みっつ。ようやく空港に着くと、とうに飛行機は到着していた。さすがに慌ててロビーを駆け抜け、隅にある椅子にぽつんと座る義兄の本田菊を見つけたときーーそして、彼がこちらを見て安心したように立ち上がったとき、どういうわけだか、なまえは泣きだしてしまったのである。


 

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