buch | ナノ


 『Ich bin nicht zuhause. Bitte hinterlassen Sie eine Nachricht...(留守にしています。ご用の方はメッセージを……)』

無機質な音声が終わると、数秒たってから「こんにちは、なまえです」と告げた。スニーカーがざらざらと砂利を踏む。うららかな公園の陽気に、ゆっくりと息を吸う。

「ええと、フラットの隣に住んでたなまえ。覚えてる? 電話したのは、べつに困ったことが起きたわけじゃなくて、ただ、その――会いたいと思って。もしよければ、連絡ください。忙しくなかったら。つまり、要するに、少なくとも、あなたも同じように思ってたらって意味だけど……」

ピーッという発信音と共に録音が切れて、携帯電話を耳から離した。大きく息を吐く。何度か行った事前のシュミレートが支離滅裂なメッセージと化してしまったが、実際は留守番電話でよかったのかもしれない。たしかにマシューの弟の云うように、対面してしまえばいくらか楽である。あとは返事を待つだけだ。野となれ山となれ、である。

 ふと、ベンチから不審そうにこちらを見ている老婦人と目が合い、ちょっと迷ってから中途半端な笑みを浮かべてみせたが、すでに彼女は手元の編み物に没頭していた。

 *

 そこらじゅう歩き回り、財布を持たずに出てきたことに気がついてから、さらにのろのろと一時間ほどかけてフラットに到着したころには、なまえは疲れ果てていた。いくぶん頭はすっきりしたので、たかだか数十秒の電話のために使ったエネルギーは無駄ではないはずだ。連絡はまだ来ないが、ひとまずお茶が飲みたい。よろよろとキッチンへ向かうと、テーブル上に見慣れない包みが目に入った。なまえはマグを持ち上げた手を止めた。

『帰ったら読みなさい(ママより!)』

冷蔵庫に、でかでかとそう書かれたメモが留められている。母が留守中に来るとはめずらしい。義父と喧嘩でもしたか、また愛のある小言でも云いに来たか。包みは大方クラップフェンだろう、と、開くなり取りだしてもぐもぐやりながら、メモに目を走らせた。

『あいかわらず、ろくなものが入ってない冷蔵庫ね。横着しないで、きちんとお料理して食べなさい。それから、お休みの日くらい部屋を片付けたらどうなの。特にワードローブの整理が最悪。それにしても、あなたは私に似ないで顔色が悪いのに、いつから青が好きになったのかしら?』

さっそく文句の連発である。尖った文字が踊るように軽やかに、疲れたなまえを諌めた。ワードローブのくだりには眉をひそめたが、『たまの週末には帰ること』までは想定内だ。なまえは立ち上がり、ケトルを火にかけた。

『そうそう、実はママ、うっかりしてて伝えるのを忘れてたんだけど、』

――まずい、これは嫌なパターン。頭の中で響く低いブザー音が、これ以上読むんじゃないと警告している。

『今度の土曜日、日本からあなたの兄さんが来るから。よろしく頼んだわよ、ダーリン!』

目の前が、ぐらっと傾いた気がした。一体どういうわけなのだろう。冗談かなにかだろうか、よろしく頼むって? 口にくわえたままのクラップフェンから林檎ジャムがぼたりと飛びでて、テーブルに落ちた。ポケットの携帯電話が振動している。先ほどの警告ブザー音は、幻聴ではなかったのだ。急いで取り上げると、着信のあとにメールが一件入っていた。ルートヴィッヒからだ。

『土曜日、14時に、アレクサンダー広場にて』

 

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