buch | ナノ


 
 "デートに誘え"
 それは極秘のミッション・コードではなく、文字通りの意味である。助言を求めたフェリシアーノから、水を飲むように簡単だと告げられた解決策でもあった。頭がおかしいとしか思えない。彼の示すものは大多数の人間にとってはバチカンの聖水、でなければアルコール度数が90以上のスピリタスなのである。ついでに「女の子から誘われるのを待つなんて、そいつ、どうしようもないやつだね。ヘタレだね!」と息巻いていたが、その"どうしようもないヘタレ"の正体を知ったら彼は泣きだすんじゃないかとなまえは思った。色々な意味で。

「ゆうべ眠れなかったってのは、そういうわけですか」

マシューは眉を下げて笑いながら、なまえが手渡したお皿をふきんでくるくると拭いた。

「僕はまた、てっきり怖い映画でも見たのかと」
「……そういうのは私、見ないもの。得意じゃないし」
「アルはすっごく怖がりなのに、ホラー映画を見ずにはいられないよ。よく分かんない使命感があるみたいで。それで結局眠れなくなって、いつも一緒に寝かされる」
「それ、双子の弟? 今も? 同い年でしょう?」
「困ったやつだよね」

フェリシアーノも年の近い兄といまだに枕を並べて眠ると云っていたから、そう奇異なことでもないのかもしれないが、どちらにせよどうかしている。ある意味では微笑ましいけれど。

「どうせ無視できないなら、いっそ対面したほうが楽なんだってさ。結果とか方法はどうでもいいから『それを見る』っていう行動が大事なの――弟にとっては。だから、最初から見ないっていう選択肢がそもそもないんだ」

そう云いながら、マシューはおもむろにキッチンの小窓を開けた。単に換気のための動作だが、どういうわけだかまるで神聖な儀式のように厳かな印象を与えた。ちょうど彼の横顔が日に晒されて、スポットライトのようにくっきりと陰影を作っていたのだ。

「それは……おもしろい弟さんね」
「おもしろいっていうか、子供だよね」

少しの沈黙が落ちた。生ぬるい風が吹き抜けるのと同時に、なまえはちょっと笑ってしまった。新しい隣人の弟がアホだからなのか、それとも、背後に聞こえたアニメのセリフがおかしかっただけかもしれない。また不思議そうな顔でこちらを見ているマシューに最後のお皿を渡すと、なまえは蛇口をきゅっと締めた。

「まったく、いやんなっちゃうな」

なまえは軽く肩をすくめた。

「どうしてこんなに動転してるのか、自分でも分かんないんだもの。たかだかデートに誘えって云われたくらいで。10代の初心なガキんちょみたい」

窓枠に手をかけたままで、マシューがしみじみとした表情で云った。

「ほんとに好きなんだなあ」

「だまれ」と呟くと、なまえは指先に残っていた水滴をマシューのメガネに向かって弾いてやった。袖口でレンズをごしごしやりながら、へらへら笑っている。彼は、ウォール街でネクタイを締めるより、精神科医にでもなるほうがよほど向いているような気がした。

「……自分の悩みが子供のホラー映画の克服と同列かと思ったら、ちょっと気が楽になった」
「ええっ、やだな、そんなつもりじゃないですよ!」
「分かってます。どうもありがとう」
「あ、こちらこそ片付けありがとう」

ていねいに礼を云われ、ついでにパンケーキミックスのメーカーを教えてもらい、なまえはようやく隣室を後にした。まだ寝癖の残る髪の毛に触れると、心なしか甘い香りがする。兵士は胃袋で動くというが、幸福感にも長くは浸っていられまい。なまえは鍵を取りだしかけたが――例の青いキャラクターは塗装がはげかけていた――同じようにポケットに無造作につっこまれていた携帯電話を確認すると、そのまま部屋の前を通過して、とんとんと階段を下って行った。

 

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