buch | ナノ


 煩悶しまま迎えた朝は、憎くもからりとした晴天だった。カーテンごしに殴りこむ日光に目を細め、なまえはだらだらとベッドにかじりついていたが、コーヒーの粉末の在処に関する思考は間延びしたドアベルによって中断された。

「おはようございます。……もしかして、起こしたかな」

デジャヴである。ただひとつ違うのは、ドアの先にいた隣人がずいぶん小ぶりになったということだ。なまえはあちこちに跳ねた髪を押さえつけながら、首をふった。

「あんまり眠れなくて。あなたこそ、今度は電話をバスタブにでも沈めた?」
「電話は無事。その様子じゃ、朝ごはんはまだですよね」

着替えすら済んでいないことを暗に示してやると、マシューは肩をすくめて「この前のお礼と云ってはなんだけど」と隣室のドアを指差した。

 *

 「どうしよう。すごくおいしい」

やわらかな欠片を一口噛むと、甘くやさしい香りが広がる。思わず喉の奥でそう呟くと、マシューは湯気の立つマグをさしだして「得意なんです」と云った。

「休日の朝は、いつもパンケーキだったから。シロップを上からいっぱいかけて食べると幸せになるってさ。僕はママに習って、ママはおばあちゃんから」
「ああ、秘伝のレシピがあるわけね」
「そう。"ジェマイマおばさんのミックス"を使うだけ」

見覚えのあるキッチンは、多少散らかってはいるが、調味料の入ったコンテナや使いこまれた道具が揃っている。パンケーキを焼く手つきも慣れたものだったから、料理が好きなのだろう。彼は飴色の瓶から、なまえの2倍はメープルシロップを回しかけて云った。

「キッチンは、前に住んでた人が残してくれたんですよ」

なまえは一瞬手を止めた。愛想笑いを浮かべようとしたが、ぎこちなく微笑んだだけだった。

「てっきり怖い人かと思ってたけど、すごく親切だったな。入居の手続きなんかも色々助けてくれて」
「根がお世話焼きなんだと思う。あの人、あれで中身は結構メルヘンだし。意外とかわいいもの好きだし」
「仲が良かったんですね」
「まあ……悪くはなかった、と思うけど」
「最近は彼、元気にしてるの?」

今度こそはっきりと表情をゆがめたなまえを見て、マシューはぱちくりと瞬きをした。なまえは口をへの字に結んだ難しい顔のままパンケーキを飲み下し、視線を左右に泳がせると、諦めたように「たぶん」と云った。

「越してから、ぜんぜん連絡してなくて――まあ、せざるをえない状況にはあるんだけど、遅かれ早かれそのうちに。そのときは必ず、あなたのこと伝えとく。シロップ取ってくれます?」

はいおしまい、とばかりになまえはパンケーキへ意識を戻そうとしたが、マシューは瓶をこちらへよこしながら、無邪気に首を傾げた。

「せざるをえない状況って?」

さあ、よく分かんないけど、となまえは口ごもった。

「……デートに誘わなきゃなんないとか」

ふたりはそれから数秒間、テレビのほうへ首を向けて、スポンジが喋る妙なアニメをしばらく見つめていたが、ふいに沈黙を破ったのはマシューだった。

「バイルシュミットさんのことが好きなんですか?」

ほんわか顔のくせに、ド直球で聞いてきやがる。

「あなたの専攻って、心理学だっけ」
「ううん。経済と金融」
「パンケーキに自白剤とか入ってるわけじゃないわよね」

意味が分からないのかジョークが通じないのか、穏やかに微笑んでいるマシューを張り倒す気にはなれず、なまえはますます苦い表情で顔をしかめた。どうしてこんなに今朝は、自分の心情をべらべらと話してしまうのだろう。すでにマゾヒスティックな諦めが心を満たしはじめていて、なまえは短く息を吐くと、ひとまずナイフを置いた。そうして学校でやった悪事を告白する子どもみたいな調子で、ぼそぼそと話しだした。

 

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