「電話をかしてくれませんか?」
その人物は、ドアの前に泣きそうな顔をして立っていた。
「あつかましいお願いだって僕、分かってるんですけど。カードを落っことしたからチャージできなくなって、こんな時間でお店も閉まってて、それで」
柔らかな茶金色の髪を揺らしてそこまで云うと、「あっ、こんばんは」と今さら挨拶をつけ加えた。呆然としているなまえを見つめる目に、みるみる涙が溜まってゆく。
「分かったから、落ちついて。電話使っていいから!」
なまえはとにかく彼を部屋へと引っぱり入れた。夜に廊下が騒がしいと猫が興奮するため、上階の婦人が怒り狂うのだ。
*
彼――マシューは、ルートヴィッヒと入れ替わりに越してきた隣人である。留学で海外から来たらしい。例によって顔を合わせることはあまりなく、彼のドイツ語が壊滅的だったことを差し引いても、全体的に印象の薄い男の子だった。カード会社かどこかへ電話をかけるその背中を、なまえは何気なく眺めていた。あまり筋肉のない、平らな体をしている。だぼついたシャツのせいか、ずいぶん痩せて見えた。
「ありがとうございます。僕どうしようかと思った、ほかに頼れる人もいないし」
「私もどうしようかと思った。だって、泣くんだもん」
眉を下げてはにかんでいる。間違ってもサイコパスではなさそうだ。
「びっくりさせてごめんなさい。ちょっとホームシックで、恥ずかしい話だけど」
「ご両親はどちらに?」
「カナダです。僕はアメリカで兄弟と二人暮らし」
マシューのほうが兄にあたるらしいが、双子だという。
「それは、お互いに寂しいでしょうねえ」
「生まれてからずっと一緒だから、変な感じですね。向こうはどうかな。わがまま云う相手がいなくて困ってるかも」
そうしてソファに置いてあるシロクマを見て、「やあ、かわいいね」と云った。見事に照れをごまかすようなタイミングだったので、なまえは吹き出してしまった。どこか危なっかしいが、庇護欲をゆるやかに刺激するタイプである(ちなみにフェリシアーノも同じ分類にカテゴライズされる)。すっかり気が抜けてしまった。
「同じようなのが実家にあります。小さいころは、よく一緒に寝てた」
「……私は、寝てないわよ」
不機嫌そうな低い声が出てしまい、マシューがほんの少し驚いたようにこちらを見た。ばつが悪くなったなまえが黙りこんでいると、やがてのんびりした声で「ああ、そういえば電話代」と云った。
「いま財布を取ってきますから、少し待っててください」
「いいから、そんなの。大したことじゃないし」
「だけど」
腰を浮かせたまま困った顔をしているので、携帯電話とひきかえにシロクマを押しつけてやった。マシューは気の抜けきった顔でへらっと微笑み、再度「ありがとう」と云った。膝の上に乗せて、ゆっくりした手つきで柔らかい毛を撫でている。
「寂しくなって眠れないなら、一晩貸してあげましょうか」
「遠慮しときます。あなたの恋人に殴られそうだから」
「恋人からもらったものじゃないわ」
「それじゃあ……お父さん?」
なまえは苦笑じみた表情で、うん、と答えた。
「イタリアのゴッド・ファーザーから」