buch | ナノ


 日常はあたふたと建て替えられ、ペンキを塗り直されて回りだす。ベランダもすっかり元通りだ。どんな手を回したのだか、業者の対応がやけに素早く、修繕費までが即日に振りこまれていたのにはさすがに閉口した(口座番号や金額を誰がどのように知りえたかは考えるまでもない)。報告がてら送ったメールには、ていねいだが簡潔な返事が返ってきた。『困ったことあればすぐに連絡をするように』という末文に、なまえは苦笑した。それはすでにひととおり起きてしまって、次は宇宙人に誘拐されようが、空から蛙の雨が降ろうが不思議ではなかったからだ。

 享受すべき平和が訪れると、なまえは、ばか正直に連絡をとらなかった。

 上戸ではないが、泥酔して記憶が飛んだこともない。だから自分が口にした言葉も、相手の表情も覚えている。よほど変態じみていた昼間のほうが、アドレナリンのせいで曖昧模糊としているくらいだ。なまえはふとしたはずみで、あの夜を思い出した。お茶を飲んだり通りを歩いたり、仕事をしているときに、街灯の下で見た澄んだ瞳が思い浮かぶ。記憶の中で変わらずにクリアな青色を、視界のどこかで探した。あんまりぼんやりしていて、何度かはエレベーターの扉にはさまれかけた。

 我ながら、ちょっとどうかしているんじゃないか。そう気がついたのは、リビングでテレビを見ているときのことだった。その日は特に目的もなく、だらしなくアイスを食べながら適当にチャンネルを変えていた。――天気予報、週末はまた雨。芸能ニュース、英国人作家が書いたベストセラー小説が映画化。料理番組ではかわいらしいトルテを焼いている。北極の温暖化。犬の躾け方。シューベルトのピアノ曲。ドラマの再放送――どれをとっても、いちいち結びついてしまう。視覚が脳から引っぱりだす情報のすべてが、そろって同じ終着点へと達する。ルートヴィッヒという人物に。

 単なる感傷にしては明らかに大げさだったし、自分でも正直なところ気味が悪かった。予感はあったし、ある程度の予兆もあった。けれども、実際に気がついてみるのとはまったく別ものだ。

『So ein Mist!(くそっ!)』

テレビ画面の中で、相変わらずテロリストと戦う主人公が、携帯電話を片手に悪態を吐いている。なまえも同じことを叫びたかった。胸がむかむかと騒いで仕方ない。アイスを食べすぎたせいでもある。ココナッツ・フレーバーなんか買うんじゃなかった。もちろん、キーファー・サザーランドにだって罪はない。

 恋をしたのである。

 

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