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 「タクシーが来るまで上がってく?」

なまえはポケットに手をつっこんだままで、体を回してルートヴィッヒへと向き直った。フラットの前へ着くころには、さすがに寒さが本格的に身を刺していた。コートに鼻先をうずめながら「ちょっとリビングに穴が開いてるけど」とつけ加えると、ルートヴィッヒは困ったような顔をした。

「あれは、実にすまなかった。緊急事態とはいえ」
「気にしなくていいってば。あんなふうに窓をぶち破って入ってくるなんて、そうそう見られない光景ですもんね。ジャック・バウアーみたい」
「修繕費用は払うからな。兄貴持ちで」
「わかった」
「なんなら慰謝料も請求して構わない」

なまえは笑いながらうなずいた。ふたりで青白い街灯の下、鼻先を赤くして震えている。せめてフラットの玄関先へ入ればいいのだが、廊下で話をすれば住人を起こしかねない。それに、この時間帯はタクシーを逃すと辛い。

「あ、でも寝室は無事ですよ」

ルートヴィッヒは焦ったようにこちらを見ると、眉間を押さえて首をふった。

「……ほんとうに、自棄になっているんじゃないだろうな。今日の件で大変な目に遭ったのは事実だが、そういう気の紛らわせ方はよくない」
「それどういう意味?」
「発言には気をつけたほうがいい、という意味だ」

わけがわからない、と怪訝そうになまえは顔をしかめたが、それは同時に通りの向こうから放たれたライトのせいでもあった。白い車体のベンツがチカチカと光りながら近づいてくる。なまえはさらに苦々しい表情で首をすくめ、そしてはっと気がついた。

「ごめんなさい。これ、忘れてた」

はずしたマフラーを手を伸ばしてかけてやると、思いのほか距離が近づいたので、何となくそのままの流れで軽くハグをする。はずみで両頬に、触れるか触れないかぐらいのキスを落とした。まだ子供だったころに母親が、なまえが学校へ行くのにでもわざわざこういった挨拶で送りだしてくれたのを思い出す。母の首元はドライフラワーのようなひなびた匂いがした。ルートヴィッヒからは、アルコールと、汗と、整髪料の匂いがする。おずおずと抱き返してくる高い体温は、相変わらずだった。

「本当に、ありがとう。その……色々と」
「いや」

すぐに体を離し、短く視線を合わせる。あっさりしたものだった。停まっているタクシーへ向かっていく大きな背中を、なまえは数秒間ぼんやりと眺めていたが、すぐにルートヴィッヒはくるりと踵を返して戻ってきた。ぎゅっと眉間に皺を寄せて、大股でのしのしと近づいてくる姿は、どこか鬼気迫るものがある。彼は立ち尽くすなまえの両肩を勢いよく引き寄せると、かがみこんで頬に唇をあてた。右と左に、ごく軽く、しかし確実に乾いた皮膚がかすめた感触があった。頬にかかる温かな息も感じた。

 ルートヴィッヒは、がばり、と音がしそうなほどすばやく身を離した。暗がりでよく見えないが、恐らくその顔は赤いのだろうとなまえは思った。自分もまたしかりである。彼が思い詰めたような表情でこちらを見ると、きれいだと口走った青い瞳が、ぴりっと歪んだ。目の前の唇が開きかけて、何かを云おうとしている。なまえはじっと待った。

「なまえ、」
「うん」

背後のタクシーが焦れたようにクラクションを鳴らす。

「……ジャック・バウアーって誰だ?」
「米国政府の捜査官」

結局、それがその晩に交わした最後の言葉だった。



 

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