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 なまえの視界がぼやけているのは、睫毛が落ちたせいではない。むしろ上機嫌ですらあるし、睫毛もいたって健康であるが、完全なる酩酊状態だった。ウォトカだの、スコッチウイスキーだの、テキーラのダブルだのを空きっ腹に塩もライムもなしで飲めば無理もない。さすがにバーのスツールから転がり落ちはしなかったが、凍てつく地面に立つ足はおぼつかない。遠慮がちに支えようとするルートヴィッヒの手を、なまえは静かに制した。

「だいじょうぶ。今ならトナカイの名前だって、9頭ぜんぶそらで云えるから」
「……8頭だった気がするが」
「30年代に増えたんです」

季節はずれの鼻歌に合わせてふらふらと歩みを進めると、今度こそ伸びてきた腕に力強く、だがそっと引き戻された。

「おい、どこへ行く気だ。帰るんだろう?」
「歩いて帰る」
「タクシーを拾うから待て」
「そんなに遠くない」
「風邪を引く」
「飲んでるから寒くない」
「あのな……」

「いいから、そこを動くんじゃない」という子どもをたしなめるような口調に、なまえは片眉をつりあげてみせた。表情筋がゆるんで冷笑している顔になる。

「そのセリフ、云うべき相手を間違えてると思う」
「あれは明け方には帰巣本能で戻る」

真顔でルートヴィッヒが云う。疑わしい本能はともかく、腹に蟒蛇が巣食っていることは確実だろう。なまえを連れだしたのは紛れもなくギルベルトだし、当の本人は隣でしこたま飲んでいたにもかかわらず、「酔いが足りねえ」と店を出るなりひとりでどこかへ消えてしまっていた。

「ああ見えて、祖父ゆずりの底なしなんだ。兄貴の自棄につき合っていたら身がもたんぞ」
「あっそう。私のは自棄じゃないけど」
「だったら単に飲みすぎだ」
「私の祖父は、"この世の終わりが近いのなら、私たちは飲んでおかなきゃならない。人の奢りだったときには特に"って」

通りすがりの酔っぱらいが「そのとおりだ!」と叫んだ。けらけらと笑うなまえを、ルートヴィッヒは呆れと困惑の入り混じった顔で見下ろしている。

「"善良で平凡に生きていたって狂ったことは起こる"とも云ってた。実際、祖父の家からの帰りに、犬に追いかけられて噛まれたもの」
「犬に? ……ああ、それで」
「そう。左足を3針も縫ったんですよ」

「見る?」と尋ねると、ルートヴィッヒは眉間にくっきりと皺をよせて口ごもった。神妙に考えこむ様子になまえは笑い声をあげながら、彼の脇をすりぬけて歩きだした。実際、フラットまでの距離はさほどもない。せっかくの酔いもさめるであろう、ピンと冷えた夜気が静かに佇んでいる。少しも行かないうちに焦ったような足音が追いつき、すぐ隣に並んだ。なまえは横目でちらりと彼を見やると、肩をすくめて笑った。

「ひとりで平気なのに。もう方向だって違うんだし」
「そういう問題じゃない」

ほとんど怒ったような、拗ねたような調子で答える。ややあって、自分のマフラーを抜き取るとなまえの首に手早く巻きつけた。歩きながらだったので、なまえは口を開く間もなく、きょとんとした顔でルートヴィッヒを見上げた。吐く息がうっすら白い。暗いアスファルトの上で立ち止まる靴音がやけに響いた。

「やっぱり寒いんだろう。震えてる」

大丈夫か、と問われたなまえはうつむくように首を引いて、たった今巻かれたマフラーに触れた。

「……どうかしら。結構、ショックを受けてると思うけど」
「あんな目に遭えば当然だ」

むっつりした顔のまま、反射的に「うん」とうなずいた。が、すぐにぎゅっと唇を結ぶと、首を横にふった。

「ううん、そういうのと違う」

ルートヴィッヒが首を傾げる。何もかもぼんやりとした視界の中で、心配そうに見つめてくる青い目だけは、なまえにはずいぶんクリアに思えた。済んだ水のように冴えた色だ。街灯の下にいると、虹彩が光って余計に印象的だった。

「きれいな目」

思わずこぼれ出た言葉に、ルートヴィッヒは面食らったようだった。しばらく呆然とこちらを見下ろしていたが、やがてゆっくり視線をそらし、「きみは帰って少し眠るべきだ」と白いため息を吐いた。



 

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