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 ふてくされたような表情で、ギルベルトは氷袋を額に当てている。正面には、にこにこしながら座る男――「イヴァンってことにしておいて」と名乗った――がいる。その隣ではナターリヤが、今にもギルベルトに噛みついてやろうという表情でぴったり寄りそっていた。兄妹というよりは恋人同士のようだ。なまえはキッチンでお茶を煎れる準備をしながら、その殺伐とした空間をぼんやり眺めていた。

 ルートヴィッヒといえば、窓ガラスの破片をせっせと片付けている。隣室のベランダをつたって来たのだろうが、無茶をやるにもほどがある。この一件で大家に追い出されたらどうしようか、となまえは遠い目になった。

「嫌だからな。おまえみたいなおっかねえやつと仕事する気なんか、これっぽっちもねえんだからな」
「僕はきみの能力を正当に評価してるよ。だから、今まで目をかけてきたじゃない」
「……邪魔してきた、の間違いだろ?」

ナターリヤが恐ろしい形相でギルベルトを睨む。また室内で暴れられてはまずいと思い、なまえはそそくさと紅茶を運んで行った。牙を剥いていたナターリヤは、白鳥のような首をつい、と動かしてなまえのほうを見ると「Thanks.(ありがと)」と小声で云った。

「あのねえ。なにも、うちの国のためにサイバー攻撃の守護者になれだなんて云ってない。でも民間でそういうの興すと、やっぱ量より質がものを云うわけだよ。報酬だって文句ないと思うけど?」
「ガイフォークス仮面にでも掛け合えよ」
「ああいうの、僕は興味ないの。可愛くないし」

イヴァンがかの"Helianthus"(ヒマワリちゃん)であろうことは、なまえにも何となく察しがついていた。あれだけ彼の影に怯えていたのだから、今回の拒絶ぶりにもうなずける。

「とにかく、俺は、絶対やだ!」

両手で頭を抱えながら、ギルベルトは喚いた。

「ロシアなんて遠すぎるし、寒すぎるし、デカすぎるし……俺はこの国と、俺の家族を心の底から愛してんだ。どんだけうまい話だろうがホイホイ着いて行けるか!」
「だったら、きみの弟も連れてきなさいよ。なんならこの子も一緒にさ、ね、みんなで仲良くうちに来ればいい。それなら淋しくないでしょ?」

キッチンの椅子でそれを聞いていたなまえは、思わず紅茶を吹きだしかけた。片付けを終えたルートヴィッヒも、紅茶のマグを持ったまま隣で眉をひそめている。放心するギルベルトと目がかち合ったので、なまえは思いきり首をぶんぶん振ってみせた。

 *

 「ちょっとした茶目っ気のつもりだったんだけど」

「ごめんね?」となまえに向かって両手を合わせ、イヴァンは首を傾げた。可愛らしいと自覚してやっているのに違いないが、今は疲労を増幅させる以外の効果はない。

「謝るくらいなら窓ガラスの修繕費くださいよ……」
「そういうサービスもやってないんだ」

たしかにガラスを割ったのはルートヴィッヒだが、ナターリヤがなまえの携帯電話から送ったメールを確認したところ、後ろ手に縛られたなまえの画像と物騒な文面が添えられていた(末尾のウィンクをした顔文字が更なる恐怖を演出していた)。幸いなのは、彼らが警察に通報していなかったことだろう。ひとまず自ら乗りこんでくるあたりが、どこまでもハードコアな兄弟である。

 イヴァンは何度もしつこくギルベルトを勧誘していたが、彼は断固として首を縦にはふらなかった。なまえはほっと胸をなで下ろした。彼がロシアへ行こうが宇宙へ行こうが正直どうでもいいが、とばっちりだけは絶対にごめんである。

「色々できないこととか教えてあげるのに」
「……間に合ってるよ。頼むから帰ってくれマジで」
「またメールしていい?」
「そもそも許可してねえ!」

ルートヴィッヒの大きな背中から顔を見せながら、ギルベルトはしっしっと追い払うように手を動かした。同じようにイヴァンの腕にしがみつくナターリヤは、去り際にもまた何か暴言らしきものをギルベルトに吐いていたが、なまえに向かってはひらりと小さく指先を揺らした。大の男を投げ飛ばしたとはとても思えない、ほっそりした優雅な手だった。

 ふたりが出て行ったあと、すぐさまドアをぴったりと閉めて押さえるギルベルトの顔色は、紙のように白かった。さきほど強かに打った額をのぞいては。

「……兄さん、 涙目になってるぞ」
「睫毛が抜けたんだよ!」



 

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