buch | ナノ


 
 位置的に時計が見えないが、そろそろ一時間は経過しようかというころだろう。窓の前で、美女が何かをつぶやいた。

「着いたみたいだね」

そう云って、男はあっさりとテレビを消した。画面のむこうではひとりのアメリカ人が絶体絶命のピンチに陥っていたが、彼が難なく危機を切り抜けることは見なくとも分かる。これから何シーズンも続くドラマの再放送なのだから。

 ほどなくドアが強くノックされると、美女がすばやく立ち上がって玄関へ向かった。錠をはずす金属音の直後、もみあうような物音がして、男がソファから身を跳ねあげた。

 ほとんど間髪入れず、どこかのガラスが割れた。

 前方しか見えないなまえには、いったい何が起きたのか分からなかった。ただ短い悲鳴をあげて、パニックと困惑で身を硬くしていた。そうするほかなかった。

「動くんじゃねえぞ。武器があんなら床に捨てとけよ」

リビングに現れたのは、はがいじめにされた美女と、それを引きずるギルベルトだった。ぎらぎらと光る真っ赤な目を別にすれば落ちつきはらって見えた。男は不意をつかれた姿勢で立ちつくしている。――ふと、なまえは背後が温かくなった気がした。そうして実際に、後ろから自分の腕をそっと掴んだ手が"誰"のものか、「無事か」という声を聞く前に認識した。全身からどっと力が抜けて、返事ができない。

「おい、なまえ?」

手早くタオルをほどかれている間も、なまえは黙って息を吐くだけだった。怖い顔でこちらをのぞきこむルートヴィッヒが視界に入り、自分が情けないやら安心するやらで、目の前が滲んでいく。さきほどまでジャック・バウアーの心配をしていたというのに、人間の思考回路とは実にシンプルだ。うなずいて視線をそらすと、ルートヴィッヒがなまえの肩を力強く掴んだ。何が起きているか理解する前に腕が背中に回されて、高い体温がカーディガン越しにじわりと伝わった。

「――ちょ、おま、いってええええ!!」

はっと頭を上げると、まさに美女がギルベルトの腕をひねりあげ、そのまま抱えこんで床にぶん投げるところだった。ギルベルトは轟音を立てて叩きつけられ、なまえはふたたびこの光景に既視感を覚えた。

「兄さん!」
「ナターリヤ!」

男ははじめて取り乱した様子を見せたが、すぐに動きを止めてこちらを向いた。正確には、ルートヴィッヒのほうを。

「待って、ちょっと――落ちついて!こっちは危害を加える気なんかないんだよ、ナターリヤも乱暴しちゃだめだって云ったじゃない!」

美女は表情を歪め、足下のギルベルトへ何かを吐き捨てるように云った。男が苦笑いしているところからすると、あまり耳にいい内容ではないらしい。

「……どういうことだ。この状況で、危害を加えないも何もないだろう」

ルートヴィッヒがふたりをまっすぐ睨みつけながら、英語でそう云った。沈黙しているギルベルトのことは、ちらりと見てひとまず大丈夫だろうと判断したらしい。あくまでも冷静である。

「信じてくれるかな。そこの彼女には誓って何もしてない。妹の行いは、兄として真摯に謝罪する」

続けろ、と視線でうながすように、ルートヴィッヒの青い双眸が細められた。

「僕は、ただ――ギルベルト・バイルシュミットくんと話がしたいだけで」
「兄と知り合いか?」

男は肩をすくめると、敵意はないと両手をさしあげてうなずいた。

「知り合いといえば、まあそうかな。僕は彼をヘッドハンティングしに来たんだ」



 

48/69

×
- ナノ -