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 相手は"おひとり"ではなかった。

 自室へ連れこまれ、タオルで椅子に縛りつけられてようやくなまえはそのことを知ったが、知ったところで何がどうなるわけでもない。

「……私、お金ならほんとに持ってないんだけど」

震える声で主張するも、目の前の男はにこにこしているだけだ。その決して崩れない穏やかな笑顔が恐怖にさらなる拍車をかける。

 なまえを縛りつけたのは、ファッション雑誌から飛びだしたようなスタイル抜群の美女だった。アンティーク人形めいた顔立ちがどこか冷たさをも感じさせる。何より彼女は一言も喋らず、それこそ人形かと思うほどに表情がなかった。

「ドイツ語、あんまり得意じゃないんだ。暴れたり大声だしたりしないでね。あとの処理が面倒だから」

訛りのある英語の発音に、なまえは心の中で絶叫した。例のストーカー被害のときにだって(意味不明な展開に混乱はしたものの)生命の危険までは感じなかったのに。それが今は、男がゆっくりこちらへ手を伸ばしただけで、頭がくらくらして胃が逆流しそうだった。

「安心して。レイプして殺したりしないよ」

男の手はなまえの上着から携帯電話を掴みだした。

「なんなの、」

質問には答えず、美女に何かを告げて電話を手渡す。異国語の内容はなまえには分からない。美女はツカツカとなまえの前へ歩いてくると、「Smile(笑って)」と澄んだ声で云った。こんな状況でそれができたら発狂一歩手前だと教えてやりたかったが、彼女はさっさと写真を撮り終えると視界の外へ消えた。

「……どうして私の名前を知ってるの」

なまえがなんとか英語で問うと、「名前のほかにも知ってるよ」と男は答えた。

「両親が再婚してて義理のお兄さんがいることも、学生時代につけられた恥ずかしいニックネームも。小さいころ、近所の犬に噛まれて3針縫った傷があるんでしょ。右のふくらはぎだっけ?」

ぎょっとして顔を引きつらせながら、なまえは反射的に「左」と答えた。似たような経験が以前にもある。知らせてもいない自分の情報を勝手に掌握されている不快感。まさか、これはひょっとしなくとも。

「だけど、用があるのはきみじゃないんだな。"小鳥を捕まえに"って云えば、誰のことかわかる?」

この瞬間ほど、あのヒヨコ頭を殴りたくなったことはない。

「…………ギルベルト」
「わあすごい、当たり当たり!」

男はパチパチと手を叩いて、無邪気に喜んだ。

「こっちには休暇で来ててさ。挨拶くらいしたいなって、ついでに寄ったんだ」
「それとこの状況に何の関係が……?」
「だって彼、僕のこと避けるんだもん。せっかく訪ねても逃げられちゃ困る」

一体なぜ、あの隣人の兄がギルベルト・バイルシュミットである必要があるのだろうか。無関係なのにまたトラブルに巻き込まれている自分は、慰謝料を請求してしかるべきだとなまえは思う。――ときどき忘れそうになるがギルベルトは立派な犯罪者だ。彼を捕まえにきたという目の前の男とて、どうひいき目に見ても正義の味方ではない。そんな物騒な事実があったなら、この世は絶望一色だ。

「でも私、彼の友人でもガールフレンドでもないし、人質の価値はないと思うけど」
「人質だなんて物騒な。きみはお客さまだよ」
「私の家ですよ、ここ。それ以前に、あなたの故郷ではお客さまを椅子に縛りつけるものなんですか」
「時と場合によってはそうかも」

にべもなく、ダイニングテーブルに肘をついて林檎をもぐもぐやっている。

「……トイレに行きたいって云ったら、ほどいてくれる?」

「残念だけど、そういうサービスはないんだなあ」とちっとも残念ではなさそうな表情で男は微笑んだ。



 

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