buch | ナノ


 
 まったく身に覚えがないのに、自分は某かの理由で世界に嫌われている。その事実に疑いの余地はないとなまえは思った。B級映画も真っ青な予想外のできごとは、もう一生分を計算してもおつりが来るほどに味わったはずだった。それなのに、神様はまだなまえに非日常というプレゼントをくれる気でいるらしい。

 それは、よく晴れているが雪でも降りそうなほどに寒い日のことで、発端は3時間ほど前にさかのぼる。

 *

 時の流れとは非情なもので、あれよあれよという間に引っ越しが始まっていた。どうやら次の入居者が予定を早めてくれと催促してきたらしく、隣人はこの週末に慌ただしくフラットをあとにすることになったのだ。

「なんか、手伝う余地はなさそうですね」

なまえが訪ねていくと、兄弟はすでにきちんと整理された荷物をバリバリと運びまくっていた。エレベーターもない古いフラットだというのに、たくましいものだ。ルートヴィッヒ自身あまり私物は多くないほうだと云っていたが、実際、一台の車におさまりそうだった。

「家具は後から別に運ぶが、それも大した量じゃない」
「じゃあ、お祝いにパンと塩でも買ってきますよ。それに、軽く食べられるものが必要でしょ」
「あとビールもな」
「……俺だけに運転させる気か?」

ギルベルトを嗜めるような声に笑いを噛み殺し、なまえは近所のデリの方角へ歩きだした。なじみのパン屋へ寄ったら、あの女主人に今後は"セクシーなお隣さん"とは呼べなくなることを告げなければ、と思いながら。

 買い物を終えてフラットまで戻ると、ちょうど門の手前でなまえの携帯電話が鳴った。ディスプレイにはルートヴィッヒの名前が表示されている。まだ移動中のはずだ。午後には、家具を運ぶために知り合いが大型のバンを運転してくるはずだと云っていたが。

『すまない、実は予定が狂って――同じ階に友人がいると伝えてあるから、もし先に着いていたら様子を見ておいてくれないか?』
「はいはい。それくらいなら任せて」

「借りの相殺までは程遠いけど」と、申し訳なさそうなルートヴィッヒに軽口を飛ばして電話を切る。まだバンは着いていないようだから、ゆっくりお茶でも飲んで待っていようか。そう考えながら階段をとんとんと上がって行くと、3階の廊下に背の高いブロンドの男性が立っているのが見えた。

 なまえに気づいて、くるりとこちらを向いたのは見たことのない人物で、バイルシュミット兄弟と同じくらいに色が白かった。思わず不躾に眺めていたなまえと目が合うと、彼は「こんにちは」と云ってにっこり笑った。

「きみ、なまえだよね。待ってたんだ」

変わった発音だな、と思う。いかにもやさしそうににこにこしているのに、どこか雰囲気が冷たく見えるのは、端正な顔立ちのせいだろうか。手を差しだしてきたので、なまえは彼が例の知り合いなのだろうと察した。が、丈の長いコートにマフラーを巻きつけて、あまり動きやすそうな格好には見えなかった。

「どうも。家具を運ぶって聞いたけど、おひとりですか?」

握手に応じると、強い力でぎゅっと握り返される。ひんやりした手だった。彼は黙ったまま、ルートヴィッヒよりも高い位置からこちらを見下ろした。――あれ、となまえは思う。胸の奥底がざわりとした。相手は微笑みながら、握った手を離してはくれない。ためしに軽く引いてみたが、びくともしなかった。

 なまえは再度、あれ、と首を傾げた。



 

46/69

×
- ナノ -