自室のドアを開けると、後方から入ってきたルートヴィッヒがシロクマをソファの上へそっと下ろした。
「フェリシアーノの奴には困ったものだ」
口ぶりとは裏腹に、とても困ってなどいない、どちらかと云えば微笑ましいといった表情でルートヴィッヒが云った。
「心配してくれてるんですよ。寂しくなったらイタリアに飛んでおいでって云ってたし」
「向こうのほうが遠いだろうが……」
なまえも苦笑してうなずいた。自室に巨大なぬいぐるみが鎮座する光景はとてもシュールで、かつ、その隣に厳めしい雰囲気の男が並んでいることがさらなる珍妙さを引き立てている。――最近知ったことだが、彼は意外と可愛らしいものが好きだ。本人は似合わないと思っているのか、決して口にはしないけれど――乱れた毛並みを整えるように撫でる、そのひどくやさしい手つきに覚えがあったが、なまえはすぐに首をふって記憶を打ち消した。
「そういえば、借りてた本があったっけ。それと約束してた本も……来てもらって申しわけないけど、30秒くらい待っててくれます?」
「構わないが、べつに急がなくていいぞ」
「じゃあやっぱり1分」
云うなりなまえは寝室へ滑りこみ、すぐにめぼしいものを探し当てて手にとった。鑑の前を通るときにふと目をやると、いつもの平凡な顔の上に、どこか不安げな表情をはりつけた自分が映りこんでいた。
リビングへ戻ると、ルートヴィッヒは壁にかかった小さな絵を熱心に眺めていた。見覚えのある光景だ。
「そんなに神妙な顔で鑑賞するほどの値打ちはないけど」
皮肉めいた調子でそう云うと、ルートヴィッヒは黙ったままこちらへ目を向けた。視線がそのままスライドされて、まっすぐ照準が定まる。彼はおもむろに歩み寄ってくると、突っ立ったままでいるなまえの数歩手前で足を止めた。こうして真っ正面に立たれると、思わず硬直してしまう。
「なに?」
必然的に見下ろされる形になり、わずかに身じろいだなまえを見て少しだけ眉をよせる。が、すぐに「いや」と答えながら軽く瞳を伏せた。
「もうずいぶん良さそうだと思って」
「……体調のことなら、おかげさまで。安否確認メールがあれだけ届けばね」
「きみが元気かどうか確かめたかったんだ」
なまえは一瞬固まりかけたが、すぐに「元気ですよ」と肩をすくめて答えた。彼のあまりに素直すぎる言葉は、こんなときになまえを少なからず動揺させる。また妙な空気になってはたまらない。
「こう見えて、けっこう丈夫だから。子供のころから風邪は一晩眠ればだいたい治ったし、自慢じゃないけど大きな病気もしたことないもの」
「それは自慢していい話だぞ、少なくとも俺には」
「そう云うと驚かれない?」
「ものすごく。だけど今回は違った」
白状せずとも「また兄貴だろう」と呆れ声が返ってくる。照れるような、ほんの少しばつが悪そうでもある表情はどことなく子供じみて見えた。なまえはようやく穏やかな微笑みを浮かべた。
「最近じゃ私たちも、けっこう仲良くやってるんです。まあ共通の話題が少ないから、必然的にあなたの話になるけど」
「……あまり妙なことを吹き込まれないでくれ」
「今のところ、可愛い話ばっかりだから大丈夫」
ルートヴィッヒがますます困惑したように眉根をよせた。彼がこういった皮肉やジョークを上手に受け流せるタイプではないことを知っているが、正直、軽口でも叩いていないと落ちつかなかった。あの風邪の日の一件以来、自分でも少し変だとなまえは思う。確実に何かが変化している。
しかし、一体"何"が変わったというのだろう?
*
本を渡しがてら玄関で相手を見送ると、ルートヴィッヒは礼を云ってから、いつもの真面目くさった顔で「俺は目利きじゃないが」と口を開いた。
「きみの家にある絵が、どれもこれも変わっているということは分かる」
彼の視線の先にある木製の小さな額縁の中では、毛むくじゃらの動物が女の子をボートに乗せて、暗い海を静かに漕いでいた。いつだったか小さなギャラリーで描き手の老人から安価で買ったものだ。
「素敵な絵でしょう、お気に入りなんだから」
「そうだな。これが一番好きだ」
「ポーカーしてる犬のやつよりも?」
「あれもいい」
含み笑いで、うん、とうなずくルートヴィッヒの横顔を見ていると、なまえは自然と自分の指先がひくひくと動きだすのが分かった。こんなことは今までなかったはずだ。自分でも意識しないうちにそれらは小さく持ち上がり、今にも何かを掴もうと宙を泳いでいる。
「さっき、今までと変わらないってあなたは云ったけど」
対の青い瞳がこちらを見た。
「私は違うと思う」
「何かが変わると?」
「ううん。たぶん、もう変わってる、かも」
ルートヴィッヒは、何が、とは聞かなかったが、その代わりにゆっくりと手を持ち上げた。わざとらしいほど緩慢な動きで、恐る恐るこちらへ伸ばされる。なまえは黙って彼の温かな掌を待ち受けた。
「……本をありがとう。また来る」
乗せられた手はするりと髪をなでて、流れるようにあっさりと離れていった。なまえは扉が静かに閉まる音を聞きながら、さまよわせていた指先を体の横へぱたりと落とした。いつの間にか止めていたらしい呼吸を再開する。――どっと力が抜けた。ふらふらとリビングへ戻ると、なまえはお行儀よくソファに座るシロクマに向かって「何も見なかったことに」と告げた。