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 「顔色がよくなったから何か食べたほうがいい」という提言のもと、今度はほどよく温められたオートミールが処方された。たしかに食欲も出てきて空腹すら覚えていたなまえは、洗いものを片付けるルートヴィッヒの背中を眺めながら、小さなダイニング・テーブルについていた。

「やっぱり兄弟って、変なところまで似るのね……」

甘党であるのは兄弟そろってのことらしく、受けとったスープボウルから一口食べるなり、なまえは「あま……!」と声を上げてしまった。

「糖分は脳を活性化させるし、精神安定作用もある」
「いや、すごくおいしいですよ。ほんとうに。病気じゃなくても食べたいくらい」
「こんなものでよければいつでも作ってやろう」

なまえは思わずぱっと顔を上げたが、深い意味にとらないように、また相手にそう悟られないように、わざとらしく詰るような声で「そんなこと云って」と云った。

「あんまりほいほい口にしないほうがいいわ。相手が友だちだろうと、元婚約者だろうと、男性だろうと」
「何だって?」

ルートヴィッヒは蛇口をきゅっと閉めて、タオルで手を拭いながらふりかえった。

「俺はそういう趣味はないぞ。云い寄られたこともない」
「聞こえてるのに聞き返すなんて、マナー違反じゃない?」

なまえがそう呟くと、相手は綺麗にまくりあげたシャツの袖をくるくると直して、向かいの小さな椅子を引いた。

「……"彼女"のことを話そうか」

ルートヴィッヒは椅子に腰かけ、手を止めたなまえに「食べていてかまわない」とうながした。

「伯母方の親族が引き取った養女で、歳も近いから、昔から何かと交流があった。色んな意味で似たもの同士だし、いい友人なんだ。それは婚約が反故になった今も変わらないが、とは云え深い仲でもない。まあ、そういうことにはなりえんだろうしな」
「なりえない?」
「そう」

オートミールを食べ続けながら、なまえは首をかしげた。

「何と云うか、もともとの方向性が違うんだ。俺なんかより、きみのほうが好みだそうだから」
「うん?」
「『今度正式に紹介しろ』と云われた」

なまえはスプーンをくわえたまま、ぽかんと相手を見上げた。――あの雨の日に、フラットの前で彼に耳打ちする美女の姿がよみがえる。濡れ鼠だった自分の姿と、電話口でおろおろと醜態をさらした自分の一体どこに好ましさを抱く要素があったのだろうか。

 なまえがものすごく難しい顔をしているのが面白かったのか、ルートヴィッヒは何とも云えない微笑をたたえながらしばらくこちらを眺めていた。

 *

 夕方から出かけるというので、なまえは礼を云いながらルートヴィッヒを見送った。彼は「温かくしてはやく寝るように」と呪詛のごとく念を押し、あまつさえ玄関先まで出てきたなまえを毛布でぐるぐる巻きにした。

「兄貴にも伝えておくからな。鍵をきちんとかけて、何かあれば連絡しろ。カフェインは摂るなよ」

なまえはバームクーヘンのようになった毛布の層から顔を出して、従順にうなずいた。過保護な父親の次は、心配性の母親みたいな口ぶりだ。

「もうかなり良くなったから、大丈夫。色々ありがとう」
「借りがどうとか云うのは無しだぞ」
「ここ最近、赤字だらけですからねえ……」

苦笑いをするなまえに、ルートヴィッヒは呆れたような顔をした。

「そんなところは不調でも、いつもと同じなんだな」
「今日のあなたも相当に変だったけど」
「俺が?」
「だって"クソ"って云った」
「……あー……忘れてくれ」
「無理ですよ。おもしろかったもの」

喉の奥でくつくつと笑うなまえに向かって「さっさと寝なさい」と云いやると、頭をぽんぽんとあやすように叩いてルートヴィッヒは出て行った。

 なまえは云われたとおりに扉の鍵を閉めてから、ふと、あれ、と思った。今のは何だったのだろう。彼は去り際にやさしく頭に触れていくような人だったろうか――少なくとも今までは、そんなことはなかったのに。転びそうな体を支えたり、熱を測ったりする以外で、あんなふうに――好意を抱いている友人にでも?

 一瞬、今日一日のことが走馬灯のように頭を駆け巡ったが、なまえはただひとこと「Ach, Gott.(なんともはや)」と呟いて、これ以上熱が上がる前に寝室へ引き上げた。



 

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