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 「ひとつ云っておくが」

ルートヴィッヒはなまえの腕をつかんだまま、ゆっくりとそう云った。耳元で低音が響くと、背中が波打つ心地がした。

「それは甚だしい思い違いだ」

いつになく威圧感のある声色に、なまえは息を殺して、顔を上げられずにいた。接触している部分に血液が集まっているのが分かる。肌の色が白いので冷たそうに見えるが、触れてみるとその逆で、ルートヴィッヒの手はひどく熱かった。熱があるのは彼のほうなのではないのか。

「だから俺を、そんなに買いかぶらないでくれないか」

「頼むから」と続けられた言葉に合わせるように、腕をつかむ力が少しだけ弱まった。

「……それ、自分がサイコパスってこと……?」
「違う」
「……部屋で死体を切り刻んでる……?」

喉がひりついて、発した声が掠れていた。ルートヴィッヒはちょっと笑ってから「Nein.(いいや)」と答えた。

「そういう趣味はない。期待をさせたなら謝ろう」
「……私、スプラッタ苦手」
「フェリシアーノと映画は見ないほうがいいかもな」

「え?」と聞き返したはずみで顔を上げてしまい、ことのほか接近していたことを再確認する。青い瞳がすぐそばに見えて、心臓がどきりとした。濡れたガラスの石のようで、より明るく灰色がかっている。いまだかつてないほど近い距離でのぞきこんだ瞳は何度か瞬いて、やがて腕にかけられた手が離れていった。

「じゃあ、思い違いって」
「ああ」
「あなたがそう云ったのは……」

なまえは様子をうかがいながら、気づかれない程度にさりげなくルートヴィッヒから後ずさった。妙に浮ついたような、それでいて刺すような緊張感が走っている。ルートヴィッヒは見ようによっては必死にも見えるが、どちらかと云えば厳めしい表情で真剣に考えているようだった。首だけはそっぽを向いて、「それは」とか「だから」とかいう接続詞を口の中でつぶやいていたが、やがて観念したように息を吐き、

「俺は、きみのことを、ただの隣人とは思っていないから」

と云った。

「好意を抱かない相手に親切にできるほど器用じゃない」

顔から首筋にかけて、うっすら赤くなっているのが分かる。――言葉どおりに解釈をすれば、それはなまえを好きだ、ということだ。恐らく、いや確実に、友情的な意味で。頭でそう分かっているのに、なまえは再びじわじわと頬が熱くなってくるのを感じた。

「だから、信頼を得たい相手との間になにか誤解が発生したなら、問題を等閑にしておくのは……不誠実だと思う」

ルートヴィッヒはなまえの目をじっと見つめて――まるで教師に正しい答えをたしかめる小さな生徒のような顔で――返事を待った。なまえはうなずいた。

「うん」

なまえはもう一度、小さくうなずいた。と同時に笑いだしてしまったのは、彼の不安げな子供のような表情と、日常会話には堅すぎる口上とのバランスがおかしかったからだ。それから自分の愚かしさへの嘲笑と、もうひとつはたぶん、嬉しさで。つい数分前まで苛ついていたのが嘘のようだった。

「何を笑ってる?」
「べつに」

ルートヴィッヒは怪訝そうにこちらを見下ろしている。まだほんの少し、耳が赤い。自分もおそろいに違いない。

「べつにという顔じゃないぞ」
「じゃあ熱があるか、今ごろ酔っぱらってきたのかも」
「……それは大丈夫と云えるのか?」

思いきり眉根をよせるルートヴィッヒに、なまえはしつこく笑いながらも「うん」と返事をした。



 

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