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 倦怠感は治まったが、なまえはマグをもてあそびながら顔をしかめていた。そこまで熟睡したつもりはなかったのだが、さぞかしまぬけな寝顔をさらしたことだろう。生存確認のために連絡してきた同僚から、出社すれば質問攻めにされる光景までもが目に浮かんでうんざりした。

「……叩き起こしてくれたらよかったのに……」
「いや、ずいぶん心地良さそうに寝入っていたから」

数分前の自分を蹴飛ばしてやりたい。

「たぶん私、ここぞってタイミングでへまをやらかすように呪われてるんだと思う。でも誓って他意はないの」
「大げさだな。体の不調は仕方がないだろう」
「それはそうだけど、ほら――」

云いながら、なまえは視線をななめ下へすべらせた。

「昨日の"彼女"にだって、悪いでしょうし」

ルートヴィッヒはひとつ間をおいて「ギルベルトから聞いたのか」と、質問というよりは確認めいた呟きとともにため息を吐いた。その反応に罪悪感をおぼえつつも、なまえは正直に、あの電話をかけた日の相手が"彼女"に違いないことも話して聞かせた。

「なるほど。兄貴はほかに何て?」
「会社役員の娘さんだとか、婚約者だとか、色々と」

にわかに相手がソファから立ち上がったので、なまえ思わずブランケットを掴んで身構えた。しかしルートヴィッヒはそのまま無言で部屋の中を見回すと、植物の乗ったテーブルのところまで行って、くるりとふり向いた。

「その話は、俺の意志ではなく親族が勝手にしたことで、今はもう違う。とはいえ家同士の交誼自体は健在だが、いや、それ以前につまりはその――そうじゃなくて」

歯切れ悪い言葉のあと、目を細めてなまえを見下ろした。

「とにかく"彼女"はそうじゃない」

ルートヴィッヒは静かに、だが口早に繰り返した。云わんとしていることが分からず、なまえもじっと彼を見つめ返す。長くはない沈黙が続いたが、やがてなまえが静かに云った。

「……べつに、何でも構わないけど」

そう云った声は明らかにいらついて、不満げに聞こえた。熱が上がってきたのか頬が火照っている。

「あなたたちが気分を害していないのなら。もしも誤解があったら申し訳ないなと思っただけ」
「いいや、誤解をしているのはむしろきみのほうだ。俺が云いたいのはそういうことじゃない」
「だけど、そもそも私に釈明する理由ってある?」
「このままじゃ埒があかないじゃないか。つまり、うまく言語化できないが……」
「説明しなくていいってば!」
「そういうわけにいくか!」

思ったよりも響いた音量に、お互いがどきりとして息を飲んだ。なまえはばつが悪くなったが、視線だけはそらすもんかとばかりに相手を見すえていた。

 先に目をそらしたのはルートヴィッヒで、彼はどんよりしている窓の外を、リビングの正面にある壁の絵を、そして最後にまたなまえを見た。ふたたび目が合うと何かを云いかけて口を開いたが、もどかしそうな顔で奥歯を噛みしめた。――今日の彼は明らかにおかしい。その証拠に、ごく小さな声で「Scheiße(クソ)」と呟いたのが聞こえた。まったく同感だった。

 今日は自分もよほどおかしい、と思いながら、なまえは熱い頬に掌を当てて立ち上がった。

「そんな格好でどこへ行くんだ」

妙に焦ったような声を無視し、さっさと部屋を横切った。窓辺の取手に手をかけると、後ろから伸びてきた長い腕がそれを遮る。見上げると、ひどく怒ったような顔をしていた。

「あのね、風に当たりにベランダへ出るだけ。心配しなくても手すりから落ちたりしませんから」
「きみは病人だろうが。空気を変えたいなら、窓を開けてやるから……」

しかし、たしなめる言葉は優しい。

「熱が出てきたんじゃないのか?」

そうして再度、額へ向かって伸ばされた指先を、なまえは反射的に身体を引いて避けてしまった。ルートヴィッヒはぎゅっと一度眉根をよせて手をひっこめた。今度は怒っているというより困りきったような、不安げな表情に見える。またひとつ罪悪感が胸をかすめたが、なまえはそれを打ち消すように皮肉めいた笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめて云った。

「あなたって人は、ほんとうにいいお隣さんですよね。そうじゃない?」

ルートヴィッヒが片眉をつりあげる。

「どういう意味だ?」
「きれい好きで誠実で、頼りになって。ただの隣人にふつう、ここまで親切にできないものね。聖人と呼んでもいいくらい」

「死体を切り刻むサイコパスでもないし」と軽口を叩くのと同時に強い力でぐいっと腕を引かれ、なまえはあやうく舌を噛みそうになった。よろめいた拍子に距離が縮まり、眼前にぴんと糊のきいたシャツが広がる。整髪料か、石鹸のような香りが鼻をくすぐった。

 なまえは文字どおり、目の前が真っ白になった。



 

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