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 ぼやける脳の片隅で、空から降る巨大なカエルがいっせいに鳴きわめく。

 妙に伸びのある、空気を裂くような振動音に仕方なく目をこじあけたものの、なまえはベッドの中でちいさく身を丸めた。体がひどくだるい。せっかく会社を病欠して惰眠をむさぼっていたのに、叩き起こされるだなんて。なまえはこの古びたフラットを気に入っていたが、例の爬虫類めいた鳴き声を思わせるドアベルだけは好きになれなかった。
 
 おおかた荷物でも届いたか、上の階のご婦人の来客か(いつもきまって部屋を間違える老人がいるのだ)――平日の昼間だからまさかギルベルトではないだろう――と思い、なまえは無視をきめこむことにした。ベルは何度か確かめるように鳴り続け、そのうち止んだ。起きたついでに水でも飲もうかとリビングまで歩いてみたが、あまりの気だるさに途中で力つき、ソファに身を投げる。

「…………なんでいるの?」

首だけをのそりと持ち上げると、半分開いた状態のドアの前に隣人が立っていた。

「講義がはやく終わったから。具合はどうだ」

いつもの真顔で答えたルートヴィッヒは、そのまま部屋へ入ってきてソファにつっぷすなまえを静かに見下ろした。

「鍵を開けっ放しにするとは不用心じゃないか。変な奴が入ってきたらどうする?」

眉間にぎゅっと皺をよせると、呆れ顔でため息を吐く。いつも誰かさんの兄上が入ってきていますよ、と云い返したかったが、その前に自分のパジャマ姿をどうにかせねばとなまえは体を起こしかけた。

「いいから。そのまま横になっていろ」

思いきり手で制されて、なまえは大人しい犬のように従順に、ぱったりとソファへ沈み込んだ。すべての動作という動作が面倒だ。特にどこかが痛むわけではないが、とにかく頭がぼうっとする。ルートヴィッヒは上着を椅子にかけると身をかがめ、驚くほどためらいなく額に触れてきた。真剣な顔つきで「熱は高くないな」と呟く。

「薬は飲んだのか?」
「……飲むほどひどくない」
「食事は」
「ぜんぜん食欲なくて。紅茶なら飲みたいけど」
「胃に負担がかかるからだめだ」

ルートヴィッヒはにべもなくそう云うと、ソファにかかっていた薄手のブランケットを掴んでなまえの肩口にかぶせた。そうして素早く身をはねあげ、そのまま玄関へ向かって歩いて行った。しん、とふたたび静寂が部屋に訪れる。

 帰ってしまったのだろうか。もう少しいてくれてもいいのに。願わくば鍵をかけて行ってほしかった。

 廊下に響く淡々とした足音に耳をすませていると、またうとうとしはじめた。なまえはブランケットに鼻先をうずめて、重力にまかせて落ちてくるまぶたを閉じた。



 

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