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 冷たい雨粒が額を打ちつける。まとわりつく湿気から一刻もはやく解放されようと、なまえはフラットへ向かって駆けていた。いつかの鞄の中身をぶちまけた書店の前を通ったが、すでに完全なる濡れ鼠のため、雨宿りをするのは気が引けた。

 フラットの手前まで来ると、真っ黒なアウディが濡れた車体をきらめかせて横づけされていた。ちょうど大きな体躯をかがめて出てきたのは、他ならぬルートヴィッヒだ。なまえは反射的に足を止めた。すぐあとからクラシカルな雰囲気の美女が車を降りて、彼に傘を差しかけるのが見えたからだ。

 あ、と思ったときには二対の目がこちらを向いていた。

 なまえはすばやく会釈をすると、アウディのわきをすりぬけた。美女がルートヴィッヒへ何事かを耳打ちする姿がちらりと視界をかすめた。

 *

 「ずいぶん降られたな」 

ドアの前でもたついていると、隣人が階段を上がりながら声をかけてきた。かたわらにあの女性の姿はない。他意など微塵もないであろうルートヴィッヒの言葉に、なまえはなぜかムッとした。濡れた髪を払いのけ、顔も上げずに「見てのとおり」と答える。視線をずらすと小さく頭痛が走った。

「きちんと拭いて温かくしないと風邪を引く」
「……ほんとにそう思う。ご忠告どうも」

つとめてそちらを見ないように身を反らし、ようやっと鍵を開ける。ノブを引くと勢いあまってよろけてしまったが、とっさに大きな手が頭上から伸びてきてドアを押さえた。真っ白で、そのくせ無骨に丸みを帯びていて、切りそろえられた爪の光る指先を見ているうち、なまえは今度は猛烈に悲しくなってきた。何が悲しいのか――雨でびしょぬれになったことなのか、みっともない格好を見られたことなのか――よく分からなかったが、それは心細さによく似た感情だった。

「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

小首をかしげるルートヴィッヒを見上げると、こちらを覗きこむ青い瞳が今日はとびきり冴えて、美しい。けれども口をついて出そうな言葉はまったく別のもので、なまえは必死にそれが飛びだしてしまわないようにぎゅっと唇を噛んだ。

「構わないでください。でも、ありがとう」

ようやくそう伝えるなり、何かを云いかける隣人をさえぎってなまえはドアを閉めた。



 

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