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 ふざけたリズムでドアベルを鳴らし、平日の夜に予告なしに訪ねてくる人物をなまえはひとりしか知らない。だからアイロン片手に玄関へ赴き、相手を確かめるまでもなく扉を開けてリビングへ戻った。歓迎しているわけではない。さもなくば何をされるか、分かったものではないからである。

「お得意の侵入術でどうにかすればいいのに」

アイロンがけを再開したなまえが、白けた目を向けた。

「あのな、空き巣の常習犯みてえに云うなよ。せっかく遊びに来てやってんだから、素直に喜べばいいだろが」
「ベランダをつたっても構いませんけど?」
「それはさすがに俺でも無理あるな」

ギルベルトはテレビのチャンネルを変えながら、我が物顔でソファに寝そべっている。ここが一人暮らしの女性の部屋だという意識など、彼の中にはないのだろう。そもそも実家に住む話はどうなったのか――今回は鍵を忘れたそうだが、最近ではそうでなくとも、隣人よりもむしろ隣人の兄と顔を合わせることが多い。へたをすると仲のいい友人よりも、一緒にすごす時間が長いのだ。 なまえが複雑な面もちで眺めていると、ギルベルトは不可解そうに顔をしかめた。

「なに見てんだよ、金取るぞ」
「いえ。ほんとうに暇なんだな、と」
「ルートヴィッヒが過剰なんだっての!大学行って、顧問弁護士のおっさんの事務所でバイトして、ジジイの会議に出て、週末は実家で犬の世話と掃除してんだから 」

「もっと若さを謳歌すりゃいいのによ」と、グミベアヒェンを噛みつつ呟く彼と違い、ルートヴィッヒは相変わらず多忙である。数日前に姿を見たが、ちょうど出がけだったので挨拶のひとつも交わしていない。最後に会話をしたのは、彼の実家を訪ねたあの日だ。ギルベルトの悪友たちと飲んだ夜――なまえはそそくさと「おやすみ」を告げて帰ったが、連中はあのまま泊まったらしい。いくら整頓されているとはいえ、成人男性がひしめきあうには窮屈だったはずだ。隣人はきちんと寝室で眠れたのだろうか?

「つくづく苦労性の気質がありますこと……」
「つーか、あれは完全にコンプレックスの裏返しだな。ガキの頃は弱っちくて、休学したりしてたし」
「ええっ!」

ギルベルトは口端をにやりとあげてうなずいた。

「マジマジ。幼年は母代わりのグヴェルナンテに教育されてんだ。そりゃもう天使のようにお利口ちゃんだったけど、ああ見えて虚弱体質でさ。今あんなに必死こいてんのも、無駄にムキムキしてんのも、あいつなりの巻き返しってわけよ」

なまえにとってルートヴィッヒという人間は、真面目ではあるが冷静で淡白で、コンプレックスを抱えているようには見えなかった。何より、病弱だったことなど想像もできない体つきである。ギャップに驚くなまえを面白がるように、弟を愛おしむように紡がれるギルベルトの話を、なまえは俄に信じがたい思いで聞いていた。

「さぞかし立派な人生の登頂を成し遂げそうですね。忙しすぎて体を壊さなきゃいいけど」
「ま、移っちまえば今よか少しは落ちつくだろ」
「移るって?」
「あれ。まさか、おまえ聞いてねえの?」

ギルベルトががばりと身を起こしたので、ちょうど隣のスツールにかけていたなまえは、思わず両手で勢いよく相手の顔面を押し返した。フランシスから頬へキスをされたことを思いだしたのと、近距離で見たギルベルトの顔とよく似た人物が頭に浮かんだのだ――他意はなかった。少なくとも、半分くらいは。

「俺様を押しのけるとはいい度胸じゃねえか……」
「心理的防衛距離ですよ!」



 

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