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 「なまえって我慢強いタイプ?」

薮から棒な質問に、なまえは頭を棚にぶつけかけた。

「なんですかそれ、どういう意味?」
「だって大変じゃない。ああいうのが隣に住んでると」

「気が抜けないでしょ」と云うフランシスはシンクの中の食器を洗っている。なまえは皿を拭きながら、しまりない笑顔を作った。リビングからは『スパイダーマン』を見終わるなりソファで眠ってしまったギルベルトの鼾と、ベランダへ出て電話をかけているアントーニョの声が聞こえている。

「そりゃまあ、さすがにアニメ柄のパジャマで廊下に出るのはやめましたよね」

当のルートヴィッヒは酔っていても完璧な分別をして、外のダストボックスへゴミを出しに行っていた。「そういう意味じゃなくて」とフランシスは苦笑して、水道の蛇口をきゅっと締めた。

「男ってのは、下心なしには親切にできない生き物なのよ。ただのお隣さんでも。まあ俺の場合は、全人類が下心の対象だけどさ」
「……おっしゃっていることがよく分かりませんけど」

換気扇を回すブーンという音がキッチンに響く。

「それを云うならあの人の親切は、ちょっと特殊ですよ。だから私も借りはきちんと返すべきだと思っていて、最近はそれが追いついてないから、困ってて……」
「あらら。困ってるんだ?」
「後ろめたい気がする、というか」

フランシスは余った木苺のタルトにラップをかけて、冷蔵庫の前にいるなまえに差しだした。両手で受けとると、甘いリキュールの香りが漂う。

「お兄さんはね、それは後ろめたさとは違うと思いますよ。でも考え方自体は可愛らしくてよろしい。なまえってさ、酔っ払うと緩くなるんだねえ」
「ゆるく? ああ、笑い上戸になるんですよ。母も――」

つい、と髪の毛を耳にかけられて、相手の顔がすぐそばにあることに気がついた。とっさに反応できず――それどころか、きれいな人だなあなどとぼんやり考えていて――頬に軽くキスが落とされた。柔らかな金髪が顎をかすめる。すぐにフランシスがかがめていた身を起こし、キッチンの戸口へ目を向けた。

「水浴びでもしたわけ? 髪が濡れてるけど」

ルートヴィッヒは「雨が降ってた」と短く答え、流しで手を洗いはじめた。肩と髪に水滴が光っている。いつもと変わらず無表情の横顔だが、なまえにはどこか険があるように見えた。たしかに、人様の家で何をやっているのかと思われたことだろう。じわじわと頬が熱を帯びはじめ、なまえはフランシスにタルトの皿を渡すと、無言でキッチンを出ていった。

 *

 「あれー、なまえも涼みに来たんや。雨降っとるよ」
「……電話は終わったんですか?」
「うん。今晩こっちに泊まる云うたら怒られた。このシャツくれた子なんやけど、ちょっと怒りんぼさんでなあ」
「ずっと気になってたんですけど、『Vaffanculo!』ってどういう意味?」

アントーニョは笑って、「女の子はそんなもん知らんでええんやでえ」となまえの頭をぐしゃぐしゃかき混ぜた。



 

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