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 「Oh, mein Gott.(何じゃこりゃあ)」というのがなまえの第一声だった。ルートヴィッヒがふり向いて首を傾げたが、それ以外にふさわしい言葉はないはずだ。

 *
 
 ふたりは先に、家の管理とともに犬の世話を頼んでいるという隣の夫婦のもとを訪ねた。そこでアスターを降ろし、物置の鍵を確認してから向かうことにしたのだ。老婦人はルートヴィッヒに犬のことは心配ないと云い、なまえの姿には驚いていたものの、「隣に住む友人だ」と伝えられると好意的にぎゅっと握手をしてくれた。

「ブラッキーとベルリッツはどうしてる? 明後日は散歩に来るから、何か買い物があれば頼んでくれ」
「必要なものはじゅうぶんありますよ。2匹はお昼寝中」
「おまえと気が合いそうだ、よかったな」

起きしなのアスターは婦人の腕に移されて、鼻を鳴らしている。ルートヴィッヒは彼の頭をやさしくなでて「また帰りに寄る」と告げると、なまえを促して歩きだした。
 
 隣家と云うわりに、距離があるとは思ったのだ。黒い鉄柵沿いにメインストリートへ回ると、ようやくなまえは、いま歩いてきた柵内が彼の家の敷地だと気がついた。中にそびえていたのは19世紀の雰囲気が残る、3階建ての重厚な建物である。東側には塔屋までくっついていた。何じゃこりゃあ、としか云いようがない。

「……私の知ってる"実家"とはちがいますね……」
「しばらく空き家状態だからな。外壁もかなり古びてる」

これは完全なる"お屋敷"である。老婦人宅をはじめとしたご近所だってなかなかに立派だが、バイルシュミット家はひときわ巨大で、荘厳だった。錆びた鉄門をくぐると、敷石の先に柱で支えられたポーチがある。装飾のされたドアと石造りの外壁にはところどころ蔦がからんでいた。

「少し埃っぽいかもしれないから、離れて」

そう云われて後ずさると、ルートヴィッヒが鍵を回した。セキュリティは古風なままらしい。

「物置は奥の階段の下だ。何台かあるから見てくれるか?」
「――あ、はい。では、お邪魔します」

玄関から入ってすぐは居間になっていた。家具に白い布がかけられ、そこらじゅう真っ白だ。埃の臭いがさほど気にならないのは、きちんと定期的に空気の出し入れがされているためだろう。ルートヴィッヒはずんずん歩いて行くが、なまえはあちこち見上げたり見下ろしたりしていたため、首が痛くなった。

「空き家にするには贅沢な……あ、お兄さんが住むのか」
「口ではそう云っているが、本気なのだかどうだか」
「まあ、これはひとりだと淋しいでしょうね」

ふと、彼はこの家に戻る気はないのだろうかとなまえは思った。ふたりが住むにも広いことは広いが、淋しさは減る。しかしそうなるとフラットの隣人ではなくなるわけだ。そこまで想像して、なまえは思ったよりもショックを受けている自分に気がついた。

「全部で4台あるな。使用期間はどれも同じくらいだろうが、念のため動作確認しておくか」

ルートヴィッヒがこちらを向く。すぐになまえもならって物置を覗くと、なるほど、4台の掃除機が他の用具とともに陳列されていた。部屋数を考えれば必然だろうが、現在は高圧洗浄機の2台で済むらしいから、文明とは偉大である。

 結局、小ぶりの1台を譲りうけることにした。古い型とはいえ、壊れる前になまえが使っていたものとさほど変わらない。じゅうぶん動くし、音は前よりも静かでさえあった。

「それでいいのか? 小型だと吸引力もさほど強くないぞ」
「そんなプロ並みのお掃除するわけじゃないんで……」

 *

 ふたたび隣家へ戻ると、昼寝から起きた2匹の犬――黒と茶色のジャーマン・シェパードに、灰色がかったグレートデン――が、跳ね上がらんばかりに駆け寄ってくるところだった。ルートヴィッヒに「Wart(待て)」を命じられた彼らは行儀よくその場にとどまったのだが、青ざめた顔のなまえは、ちょうど中庭に立っていた老夫婦の旦那にしがみついてしまった。



 

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