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 小型のベンツが街路樹の下を走る。夕暮れに近い時間帯だが、空はまだまだ明るい。この通りは週末でも閑静だ。

「犬が苦手だとは知らなかったんだ。大丈夫か?」
「このくらい小さければ。大型犬はちょっと、あんまりいい思い出がないんだけど……」

なまえは大人しくしている仔犬をやさしくなでてやった。車に乗せられて緊張しているのかと思えば、単に眠いだけらしい。目的地まで約数十分、助手席のなまえはまさか眠るわけにはいかない。本来なら同乗してそのまま帰るはずのギルベルトが、あれこれ理由をつけて(「だって俺の部屋、腐海の森みたくなってんだぞ!」)来なかったのだ。

「もう名前は決まってるの?」
「アスター」
「"Kleine Aster"?」
「さすがに偶然だと思うがな」

ハンドルを握るルートヴィッヒがうなずく。なまえはさきほど読んだ、同名の『酒呑みと死体解剖の詩』を思いだした。名づけられたのが"Morgue(死体安置所)"ではなくて幸いだ。

 アスターが膝の上で寝てしまい、その柔らかな毛並みに指をすべらせながら、なまえは運転席へちらりと目をやった。Aクラスにおさまる体躯は少々窮屈そうだ。シャツの袖から伸びる二の腕を見ると、さきほどの感触が蘇ってきた。不可抗力とはいえ何度か触れるたび、高い体温と、ルートヴィッヒの寛容さになまえは面食らう。はじめの印象からは潔癖めいて見えたし、ふり払われはせずともそれなりの反応があると予期していたのだ。不器用ながら、やさしい人間だと思う。あてられすぎると中毒になりそうな――フェリシアーノあたりはすでにその域を超えているようだが――心地のよい頼もしさがある。一緒にいて安心するし、楽しいとさえ感じる。そう、これは好意だ。たぶん"友情"寄りの。

 それなのに、こんな気持ちになるのはどうしてだろう。

「ラジオをつけても?」

青色のまなざしが「どうぞ」と答える際に、こちらを向いた。ボタンを押すとちょうど聴き覚えのある声が飛びこんできて、なまえはチューニングの手を止めた。

「うわ、懐かしい。この映画見に行きましたよ、むかし」
「アメリカ映画?」
「ドイツです。歌はディランだけど」

考えこむような顔をしたが、すぐにかぶりをふる。「そういう話題には疎くて」とぎゅっと眉をひそめる様子を見て、ようやくおどける余裕のでてきたなまえが云った。

「やっぱりほんとうは一国の王女さまで、庶民の生活を体験しに抜けだしてきたのかも」
「……どうだかな、そっちこそ新聞記者なのでは?」
「あなたの家のゴシップは調べる必要がないわ」
「まったくだ。だいたいこんなゴツい王女がいてたまるか」

相手がめずらしくジョークに乗ってきたことに、なまえは内心喜んだ。もっとも自分は、王女さまがどれだけゴツくても一向に構わないのだ。おもしろければ。そう弁舌をたれる前に映画の内容を尋ねられ、なまえは慌てて記憶を手繰った。

「えーと、たしか、ふたりの男がお金と車を盗んで、海を見に行くって話でした。死んじゃう前に」
「この歌詞のように撃たれて?」
「病気でもう余命がないから、病院を脱走するんです」

そういえば、映画の中のふたりもベンツに乗っていたっけ。鮮やかなブルーの色をしたスポーツカー。ラジオから流れる曲が流行りのものに変わるころ、隣人が「海はしばらく見ていないな」と呟いた。



※もちろん犬の名前のくだりは捏造ですので、あしからず
 

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