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 「あの、私。なまえですけどー」

ドアの向こうから「入ってくれ」と声がする。中を覗くと、廊下わきにある浴室から隣人が顔をだした。掃除でもしていたのか、脛までまくり上げられたジーンズから真っ白い素足が見えている。

「すまん、ちょっと手がふさがってる。とりあえず中で座って――こら、おまえはまだだ!」

彼の足下に、さらに白っぽいものがモジモジとまとわりついていた。大きめのミトンほどの毛の塊から、ガラス玉のような瞳がこちらを向く。嬉しそうに尻尾をふるその生き物に、ルートヴィッヒが人差し指を立てた。

「悪い子だな。床が泡だらけじゃないか」
「犬を、飼いはじめたの?」
「兄貴が連れてきた。知り合いから譲られたらしい」

答えながら、腕の中の仔犬をやさしくタオルで拭いている。この種類の緩みきった表情は、前に一度だけ見たことがあった。フェリシアーノと飲みに行った晩だ。あのときは単に微笑ましいと思うくらいだったのに、今は不思議と、見てはいけないものを見たような気がする。

「えーと……それで、当のお兄さんは?」
「車を取りに。どのみちここじゃ飼えないからな」

うろちょろする仔犬に向かって「こっちにおいで」と囁く姿を見ていると、なまえは、いよいよ自分が苦行僧のような心地がした。顔を上げたルートヴィッヒと目が合う前に首の向きを変えたのは、かなり不自然な動きだったに違いない。

「映画のDVDと、本は『分別と多感』をチョイスしました。私も何か借りていい?」

「もちろん」と彼に促され、なまえはそそくさとリビングへ向かった。持ってきたものをテーブルに置くと、新聞の脇に灰色がかった古めかしい本が目にとまる。著者はゴットフリート・ベン。手にとって斜め読みするうち、異様な字面に見入っていたらしく、すぐそばにルートヴィッヒが立っていることに気づかなかった。

「ギルベルトの趣味だ。持って行っていいぞ」
「あ、べつに死体の解剖に興味があるわけじゃないんだけど。この詩は面白いと思うわ」

さりげなく距離をとりながらそう答える。仔犬は乾きかけのつやつやした毛を光らせて、ふたりの足下を歩き回っていた。見たところ、レトリバーの一種だろうか。

「ご実家で飼うんですか。ほかにも2匹いるんじゃ?」
「今は隣家の夫婦に世話を頼んである。兄貴が向こうで暮らすから、こいつも一緒に連れていってもらうつもりだ」
「3匹か。ほんとうに犬好きなのね……」

なまえは乾いた笑みを浮かべた。ルートヴィッヒが何か云いたげに口を開いたところで、仔犬が急に、玄関のほうへ駆けだした。なまえがビクリと体を震わせて隣の腕をつかんだのと、ドアが開いたのはほぼ同時だった。

「悪い。洗車してたもんで遅くなって――ありゃ、おまえも洗ってもらったのか?」

仔犬を抱き上げたギルベルトが、ふんふんと鼻をよせる。

「さっき電話したら、旦那が出かける5時前には来いとさ。車庫にアライグマだかが住みついてたらしいんで、車は外に出しとけってよ」

彼がリビングに現れたころには手を離していたものの、ギルベルトが「おう、来てたのか」とこちらの姿に気がつくと、なまえはさらに後退して強ばった表情を向けた。ルートヴィッヒも我に返って「おかえり」と兄に告げた。

「今日は本を渡しに来ただけなので、そろそろ」

ギルベルトは「ふーん」と答え、真顔でこちらをじっと見下ろした。が、おもむろに「おまえもついてけば?」となまえに云った。

「――は? あなたの実家に? なんで」
「掃除機ぶっ壊れたって云ってたろ。古い型のやつなら、何台かうちの物置にあったぞ。放置されてたけどまだ使えるんじゃねえの」
「そういえばそうだな。高圧洗浄機を買ってからしまいきりだと云っていた」
「ちょうどいいだろ。タダだし貰っとけ貰っとけ」
「いや、ですけど、そういうわけにも」

狼狽えるなまえを尻目に、兄弟はそうだそうだと話を進めている。どうせ処分するのだから、と云われればありがたいが、また借りを作ることには気がとがめた。何より、ギルベルトがなまえに働かせる親切だなんて、それがよからぬ企みである可能性は捨てきれないではないか。キッチンでの苦い歴史が頭をよぎる。

「ほら、さっさとしろよ。5時前にって云われてんだぜ」
「なまえは先に降りててくれ、着替えてから行くから」

『迷惑をかけられたら云いなさい。フライパンで殴りに行くわよ』という、あの日のエリザベータの微笑を前に、まさかすでに被害に遭っているとはなまえには云えなかった。なまえは未だにギルベルトが苦手だが、この世から消し去りたいほど嫌っているわけではないのだ。

 なまえの足下で、仔犬までもが彼女を急き立てるように、可愛らしく吠えた。



 

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