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 微妙な誤解をされたまま、別れの時間はやってきた。ハグを交わしたあと、彼らは店の前でタクシーに乗り込むなまえたちを、何がおもしろいのかひどく破顔して――あのローデリヒですら――見送ってくれた。きっと酔っ払っていたのだろう。デザートのディプロマーテンを食べるころには、4人はかなりの量のワインを飲んでいた。

「……本日の功労者に奢られてしまった……」
「構わんさ。ぼんやりして見えるが稼いでるからな」

ルートヴィッヒは窓をコツリと叩くと、運転手に行き先を告げた。なまえは後ろを向いて手を振っていたが、「シートベルトを」と云われて座席に深くかけた。

「セレブリティと呼ぶのなら、まさにローデリヒのことだ。あいつは家柄じゃなく才能で名声を手にした。本物だ」

言葉は自嘲めいているが、表情は穏やかだ。うっすら微笑む横顔が、羨慕ではなく純粋な尊敬だと語る。ルートヴィッヒとて恐らく、その血に見合う努力をしてきたのだろうに。

 なまえも酔いが回ってか、しばらく暗い車窓へ目を向けていた。沈黙は心地悪いものではなかったが、運転手がそっとラジオをつけた。ゆるいオールディーズが流れてくる。

「まあ、たしかに」

火照った頬に手の甲をあてながら、なまえが口を開いた。

「生まれついて有名だと、いいことばかりじゃなさそうですね。食堂の砂糖と塩を入れ替えるとか、楽しい悪事も働けないし――お兄さんは例外だけど」

ルートヴィッヒは小さく笑ったが、すぐに困ったような顔で「賞賛の一方で疎まれるのも代償か」と云った。それが自分のことなのかギルベルトのことなのか、はっきりしない云い方だった。なまえはわざと深刻な顔つきで「アンクル・ベンいわく」と述べた。

「With great power comes great responsibility.(大いなる力には大いなる責任がともなう)」
「いい言葉だな。きみの伯父さんが?」
「……『スパイダーマン』見たことない?」

きょとんとした顔で首をふる。なまえは"信じられない"という身ぶりで大げさに肩を落とした。もちろん、逆に彼がアメリカン・コミックに詳しかったら狼狽えただろうけれど。

「俗文化の民を代表して、私がDVDを貸してあげましょう。アン王女」

ルートヴィッヒは「その映画は知ってる」と即座にうなずいた。その反応に、なまえは喉の奥から笑い声を漏らした。運転手のトルコ系男性も、後部座席の楽しげな雰囲気を見てにっこりしている。

「子供のころ、それこそエリザベータに見せられたぞ。何度も見ているのに、毎回必ず大泣きするんだ」
「映画にせよ本にせよ、ああいうシチュエーションは夢がありますから。男性にしたって女性心理が学べるでしょうし」
「たとえば他には?」
「他にって?」
「つまり、その、女性の心理について学ぶには……」

あまりにも真面目くさった物言いに、驚きと、おかしさと、ほんの少しの困惑を覚えたなまえは、考えこむふりをして曖昧に微笑んだ。ラジオから流れる昔のフォーク・ミュージックにあわせて、運転手が鼻歌を歌っている。窓に当たる水滴がリズムを刻む。いよいよ目蓋が重くなってきた。

 ひとまず、ジェーン・オースティンでも渡しておこうか。



 

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