buch | ナノ


 
 結論から云えば、演奏会は素晴らしかった。

 クラシックに疎いなまえにも馴染みの曲から古典的な弦楽曲まで、演目の主体はシューベルトだ。熱心なファンがつくほどの奏者たちが、こじんまりした室内楽をやるというのも贅沢だった。近頃ごぶさたな文化的イベントへの参加を、なまえは純粋に楽しんだ(ちなみに先月、同僚に無理矢理つきあわされた"シュラフに入って踊る前衛ダンスの演劇"はカウントされない)。

「大満足でした。久々にきちんと音楽を聴いた気がするし」

高いヒールで足をいじめた甲斐はある。以前、気合いを入れて買った青いワンピースもようやく日の目を見たわけだ――残念ながら、これはデートではないけれど。

「そう云ってもらえると、知人も喜ぶだろうな」
「本当に挨拶しなくてよかったの?」

ルートヴィッヒも満足げな横顔で「あとで連絡を入れておく」とうなずいた。企画者でもあるという繊細な面もちのピアニストは、かなりの著名人らしく、終演後の楽屋はひときわ長い行列ができていたのだ。混み合っているロビーを出ると、隣のルートヴィッヒが足を止めた。

「このあとの予定を尋ねても?」
「……特に何もございません」

反射的にそう答えてから、なまえは、かすかに自分の声に含まれる緊張を感じた――やはりマゾなのだろうか、「気を遣わないで」と軽く流すこともできたのに。こちらを見下ろす青い目までもが、気のせいか妙に強ばって見える。上品なスーツの上にあるしかめっ面は、いつにも増す威圧感だ。

「もし良ければこれから、食事にでも――」
「お待ちなさい、ルートヴィッヒ!」

眼鏡の男性が足音も荒く、つかつかと歩み寄ってくる。周りから控えめな歓声が上がった。そこでなまえは、彼があのピアニストだと気がついた。

「このお馬鹿さんが!こんなに私を歩かせて……まったく、許しませんからね!」

ぜいぜいと息をする頭からは寝癖なのか、黒い一房がぴょんと飛びでている。演奏時とのギャップに呆然としていると、彼は「おや」となまえへ視線をすべらせた。ルートヴィッヒは心から気まずそうな表情でふたりを交互に見下ろし、口を開いた。

「……なまえ、知っているだろうがこれはローデリヒ。ローデリヒ、彼女はなまえだ」
「"これ"とは何ですか。お下品です」

「初めまして、なまえ」と差しだされた手を握る。楽譜より重いものは持てなそうに見えたが、思ったよりも力強く骨張った感触だった。

「ご婦人を連れているのなら、尚更きちんとご挨拶なさい。この子、昔はとてもお行儀が良かったんですけどねえ」
「ええと――とにかくだな。疲れているかと思って、あとで連絡するつもりだったんだ。嘘じゃないぞ。だから、その、すまなかった」

実の兄相手にさえ見られなかった隣人の辟易ぶりは、新鮮だった。"知人"どころか、これではまるで母親だ。彼の関係性はつくづく謎めいている。

「ギルベルトが戻ったと聞きましたが」

囁くような声に、ルートヴィッヒの顔がふと曇った。

「大方、また愚かな考えに取り憑かれているのでしょう? 関わらないほうが身のためですよ」
「……そういうわけにいくか。実の兄貴だぞ」
「あなたがたは昔から、本当に彼には甘いのですね」

苦々しいような、照れくさいような表情で黙りこむルートヴィッヒを見るローデリヒは、呆れ口調なものの優しげなまなざしだった。ひとつため息を漏らすと、なまえに向き直って別れの挨拶をし、くるりと背を向けた。

「エリザベータが心配しているので、顔くらいは見せに来るようお伝えなさい」

そうして優雅な足取りで、ピアニストはふたたびホールの喧噪の中へと引き返して行った。



 

26/69

×
- ナノ -