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 数日後、「話があるから来られないか」と隣人からメールが届いた。現金なもので、どこか気が引けていたのは事実なのに、気持ちが弾んだこともまた事実である。そうして次になまえが抱いたのは疑念だった。――話ってなんだろう、またスープレックスが炸裂するレベルの深刻なことかしら?

「そんな事態に備えて、なごむ手土産を持ってきました。イースター狂の知人が季節を問わず大量にマシュマロ送ってくるの」
「ありがとう。備える事態とは?」

なまえは「こっちの話」と即座に答え、ドアを閉めた。

「急に呼び立ててすまないな。実は――失礼、電話が」

ルートヴィッヒは「座っていてくれ」と促すと、携帯電話とともに寝室へ入って行った。いつもの真面目くさった表情だが、かすかに疲労が窺える。ぼんやりと背中を見送ると、ケトルがぐらぐら揺れる音が聞こえ、なまえは反射的に廊下のわきにある小部屋へ入って火を止めた。その恐ろしく整頓されたキッチンに入るのは二度目だ。ティーカップとポットが並べてある。紅茶の缶は、備えつけの棚の上だったか。

「よう、ゲストが何やってんだ?」

ギルベルトが、ひょいと上半身をのぞかせた。今日はCCCとプリントされたシャツを着ている。

「どうも。紅茶を煎れようかと……」
「あれか」

思いきり背伸びをするなまえに、愉快そうな表情を向けて近づいてくる。前回あんなことがあったせいかめずらしく親切だ。そう思っていると、彼はいきなりなまえの腰をむんずと掴んで抱き上げた――小さい子供にするみたいに。ジーンズを履いていてよかった。

 悲鳴まじりの叫び声をあげて身をよじると、ギルベルトの鳩尾になまえのかかとが見事にヒットした。ルートヴィッヒが飛んできたときには、ひとりが顔色を真っ青から真っ赤に染め、もうひとりは脱力して真っ白になっていた。

 *

 「これは復讐か? 俺に対するあてつけならやめろよな、そいつは何もやってねえ!」

わめくギルベルトを完全無視して、なまえはヒヨコの形をしたピープス・マシュマロを、ブチブチと千切りながら咀嚼する。思惑に反して空気はなごまなかったが、手土産はべつの役割を果たした。結果オーライだ。

「それで、メールにあった話って?」

ルートヴィッヒは手元のウサギのマシュマロを――気のせいか目を輝かせて――じっと眺めていたが、すぐになまえに向き直り、テーブルの上に小さな白い紙を置いた。

「知り合いに音楽をやっている者がいるんだが」

なまえはこちらへ滑らされる紙片をのぞきこんだ。何かのチケットらしく、演目と時間が書かれている。ルートヴィッヒはわずかに視線を泳がせながら、めずらしく戸惑いがちに口ごもり、首へ手を当てた。

「実は今度、その演奏会があって」
「……だめだ。触り心地も完璧すぎる……」
「色々とこちらも迷惑をかけたから、詫びといってはなんだが、もしも興味があれば。もちろん嫌なら断ってくれて構わないが……」
「食えねえ!俺にはとても無理!残酷すぎて!」
「兄さんうるさい!邪魔をするなら向こうへ行ってくれ!」
「あの――興味あります私、ぜひ行きたいです」

慌ててなまえが割って入り、エキサイトしかけた空気は霧消した。この兄弟に関して、なまえはある種の強迫観念にとりつかれている。また何らかのプロレス技が出たら、今度こそフラットを追われる気がしてならないのだ。

 演奏会は翌週末である。なかばどさくさで了承してしまってから、なまえは自分はもしやマゾなのではなかろうか、と考えはじめた。



 

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