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 白いタイルの戸口をくぐると、女主人が「今日は間に合ったわね」とにやりと笑った。朝焼きのパンを買えたのも、散歩をする気になったのも久々だ。なまえは半端な笑みを顔面に貼りつけてうなずいた。

「セクシーなお隣さんとは最近どう。 シングルだった?」

紙袋を受け取りながら「それどころか……」と、いかにも深刻そうに顔をしかめるなまえに、相手は首を傾げた。

「実はあの人、お姫さまだったんですよ」

 よほど疲れていると思われたのか、無言で甘い胡桃のパンを入れられた。

 *

 ルートヴィッヒとはしばらく会っていない。廊下ではち合わせることも、朝のゴミ出しで姿を見ることも、メモやメールのやりとりすら途絶えていた。忙しいのか、あまりフラット自体にも帰っていないようだ。依然として彼の私生活は与り知らぬところであり、そのことに一抹の寂しさを憶えつつ、なまえは同時に安心してもいた。これが本来の日常というものだ。

 一方で、平穏を浸食しはじめている人物もいる。

「Hi, Fraulein.(よう、お嬢ちゃま)」
「Ach, Guten tag, "birdie".(ごきげんよう小鳥さん)」

ギルベルトは例の捏造事件以来、一旦引いて機を待つにしろ、リベンジを完全に諦めたわけではないらしい。ときおり外へふらりと出て行く以外は、たいてい暇そうにしていた。

「つーわけで、今日はコーヒーの気分。浅煎りで」
「……帰巣本能おかしいんじゃないです?」

そうでなくとも、なまえは基本的に彼を(隣人やフェリシアーノとは別の意味で)"得体の知れない生きもの"として警戒している。こちらの都合に構わず現れては、テレビを見たり飲み食いしたり――ときには同時にそれらを行い――好き勝手ふるまうこの男が隣人の兄でなければ、迷わず叩き出していただろう。ドアベルを鳴らすだけましにはなったが。

「云っておくけど、私、あなたを許したわけではないので。今から警察に話すこともできるし」
「証拠もねえのにか? いいとこ痴情のもつれ扱いだろ」
「それだけはありえない」
「お嬢ちゃまは浮いた話ゼロだもんなあ」

ふん、と笑う男の手元でキーボードが軽快に音を立てる。

「IT部のヘルムートからメール来てるぜ。こいつ隠れゲイだけど」
「いい加減に、パスワード破るのやめてったら!」

わざと煎れてやった紅茶を押しつける代わり、ソファに座るギルベルトから自分のラップトップを取りあげた。相手は一瞬驚いたが、とくに悪びれる様子もなく「解読ソフトがあれば誰にだってできる」などとマグを傾けている。

「――あのね。バイルシュミットさん」

なまえはいよいよ唇を噛むと、深く息を吐きだした。

「そういうの、私はものすごく、大嫌いなの。うんざりする。あなたがどこで何をしようと構わないしどうでもいいけど、私のプライバシーに立ち入らないで。関わるのもごめんだし、聞きたくない。それから、もう一度私のことを『お嬢ちゃま』って呼んだら」

見上げる赤い目が、ぱちくりと瞬きする。

「あなたをそこの窓からブン投げて、二度と口をきかない」

ぎゅっと強く眉根をよせる表情が、腹立たしいほどに兄弟そっくりだ。しかし、そんな光景を堪能している余裕はない。あとからあとから沸き上がるヒステリックな感情が表に出ないよう、なまえは掌で顔を覆い隠した。そうしていなければ、もっとひどい言葉を吐きそうだったからだ。

「分かったよ。……悪かった」

ゆっくりとソファから立ちあがる衣擦れの音がする。この男がしおらしいだなんて奇跡でしかないのに、それを笑いとばせる気分でもなかった。焦燥をはらんだ声で「とりあえず落ちつけ」と云われるが早いか、なまえは噛みつくように顔をあげた。

「あなたがムカつかせることばっかり云うからでしょう!バカじゃないの!?」
「悪かったって、マジでごめん!ごめんな?」
「急にやさしくなだめないで!気味悪い!!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!?」



 

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