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 「それじゃ、決裂も和解もなかったってこと?」

林檎の乗ったクーヘンが、なまえのフォークから落ちかけている。すんでのところで飲みこんだ。ルートヴィッヒは首元のタイを緩めながら、気だるげにうなずいた。

「そのうち、いくつか裁判をすることにはなるはずだ。脅迫は単なる愉快犯のしわざだと思われてる」
「だけど……普通は怪しむでしょうよ」
「そうなんだが。会って話すうちに、叔父はどうやら兄貴自身に興味を持ちはじめたらしくて」

兄弟は父親の墓へ参ったあと、会社へも顔を出したらしい。現トップである彼らの叔父と、短いながらも話し合いの場が設けられたという。

「標的が俺から移ったわけだ。兄貴がどうかしているのは今に始まったことじゃないが、叔父も相当に変わってる」

近く親族で食事会があるため、それまで兄が逃げ出さないよう目を光らせなければならないーー呆れ顔でそう告げるルートヴィッヒは、今日はトム・フォードのスーツを着ている。体格が立派すぎて、まるで富豪のシークレットサービスのようだ。大学の講義がない日は事務所で手伝いをするか、週末は実家で犬の世話をしているそうだが、ときどきはこんなふうにフォーマルな格好で叔父を訪ねることもあるらしい。若干、目のやり場に困るものがある。

「それはそれは。またえらく、面白そうなお話で……」

なまえの軽口に、ルートヴィッヒは「まったくだ」と気の抜けた苦笑いをもらした。

 *

 数日後、なまえは隣室へ電話をかけていた。『スクールバスのデザイン変更を求める署名活動』だとかなんとか、近所の小学校に孫をもつ大家が熱心に行っている活動のチラシを渡すように頼まれたのだ。(ちなみに若手のポーランド人デザイナーが手がけたもので、全面ショッキングピンクに塗られたバスらしい)

『ルートヴィッヒ・バイルシュミットの代理だが用件は?』

あろうことか、応答したのは彼の兄だった。

「……ご実家に、お帰りあそばしたのでは……」
『嫌そうに云うな。残念だけど、あいつ今留守でさ』

そうですか、ではと会話を切り上げようとするも、ギルベルトはよほど暇らしく『おまえ隣にいんの?』と妙に嬉しそうに尋ねてきた。

『ひとり楽しすぎる俺様が、遊んでやってもいいけど?』
「いえ、結構です。ほんとうに結構です」
「遠慮しなさんなっての」

ぎょっと驚いてふり向くと、さきほどまで電話口で話していた相手が玄関先に立っていた。鍵をかけているのに、いつの間に、どうやって入った? ギルベルトは返答の代わりに、小さな銀色の物体を放り投げてきた。

「そうカリカリすんな。一回だけだぜ」

なまえは呆然としたまま、拾いそこねた合鍵を見下ろした。

「……一回なら許されると思ってそうなあなたが怖い」
「云っとくけど、盗聴撮まではしてねえからな」

濃い色のサングラスをはずすと、あの燃えるような赤い瞳が悪びれるふうもなくこちらを向いている。なまえは、握りしめた携帯電話を投げつけたい衝動をうまく押さえ込んだ。パニックに慣れはじめているのかもしれない、不名誉なことに。「もう器具も回収したしデータも破棄した」と肩をすくめるギルベルトを、なまえは信じられないという目で睨みつけた。

「ちょっと待って。回収のときにも入った?」
「あ、ほんとだ。じゃあ二回」

今度こそ通報しよう、となまえは思った。訴えたら勝てそうな気がする。いかに相手がセレブでも、こちらは純然たる被害者なのだ。

「安心しろよ。おまえのクソつまらん日常に興味ねえし、内容も覚えちゃいないから。それよかテレビのリモコンは?」
「そこの右の肘かけに――じゃなくて。これは倫理の問題で、私はあなたほどリベラルな道徳観を持っているわけじゃないので……」

ギルベルトはどうでもよさそうに肩をすくめると、勝手にソファへ沈みこんだ。

「まあまあ、ここへ座って夕方のニュースでも見てな。きっとステキなことが起こりますよ」



 

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