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 ほどよく冷めた紅茶を一口含み、窓へ目をやる。ベランダにからむ蔦を大家はわざと放置しているのだろう。クラシカルな白い枠に緑が映えて、まるでお伽噺のお姫さまの部屋のようだから。

 この窓辺に佇む受難の君は、美しく賢いだけでなく、それはそれは心身ともにたくましい。どこかの王子が助けに来なくたって、邪悪な白い魔法使い(ウィザードというよりクラッカーだが)を返り討ちにし、自力で塔から脱出してしまう。さしずめ森の仲間・その1のカエルであるなまえには、残念ながら出番すら訪れないのだ。永遠に。

「そうして森の隠者になって悟るのか……ジンプリチムシスのように」

遠い目のなまえを、ルートヴィッヒが「大丈夫か?」とでも云いたげな表情で凝視している。大丈夫なものか、このハードコア兄弟はおかしい。とりわけおかしいのは兄のほうで、確かめるまでもなくひとつ自明なことは。

「あなたのお兄さんは、いかれてますね。頭のネジがはずれてる」
「……まあ、否定はしないな」
「してくれよ!」
「お知り合いになれて光栄です。たとえ発想の痛さに磨きのかかった、重度のファザコン犯罪者だとしても」

あからさまな作り笑いを向けたあと、ルートヴィッヒに彼がほんとうに実兄かどうかを尋ねてみたが、返ってきたのは「残念ながら」という真顔での答えのみだった。

「"信実は誰の耳にも心地よいものではない"ってね」
「おい、凍てつく氷河のような目で俺を見るのはよせ!マジでそういうの地味に――」

反論しかけたギルベルトが、はたと動きを止め、おもむろにポケットから携帯電話を取りだした。すばやく操作すると、短い舌打ちとともに顔をあげる。

「悪い。そろそろ帰りのお時間だってよ」

すぐさま首を傾げたのはルートヴィッヒだ。

「まだ話は終わっていないぞ。それに帰るって、どこへ?」
「心配すんな。嫌でもまたすぐ現れるぜ」
「一緒に暮らせるんじゃないのか?」

ギルベルトは立ち上がると、なぜかなまえのほうへ一瞥をくれて「そのうちな」と答えた。

「親父の墓参りには行くよ、犬たちにも会いてえし。あいつら元気?」
「……ああ。隣の夫婦に預けてある」

満足げにうなずいて戸口に向かうギルベルトに続き、ルートヴィッヒが「兄さんは勝手すぎる!」と声を荒げながら部屋を出て行った。ふたつの大きな背中がすっかり見えなくなってから、なまえは弾かれたように彼らのあとを追った。

 *

 「明日、連絡しろ。必ずだぞ」
「へいへい。おまえらも飯食ってさっさと寝ろよ」

ひらひらと揺れる手の先で、プジョーがライトを点滅させている。離れていても、なまえには車中の人物に覚えがあった。後部座席にいるラテン系はいつぞやの変なTシャツの男とそっくりだし、こちらへ投げキスしている運転手は――モデルのように綺麗な顔立ちだ――"メトロ"のナンパ男だろう。

「そういや、さっきのな」

通りの一歩手前で、くるりとギルベルトがふり返った。

「無害発言は取り消す」
「えっ」
「今から俺様辞書にあるおまえの項目は、"ほとんど"無害」

ぽかんとするなまえを見下ろして、おかしそうに喉の奥で笑っている。隣に立つルートヴィッヒが目元を掌で覆った。


 テールライトが完全に路地の彼方へ消えてしまうと、あたりは普段どおりの静けさと暗さを取り戻した。ため息と同時に力が抜ける。しゃがみこむ代わりに石塀にもたれかかり、なまえはぼんやりと隣人を見上げた。

「ファミリー・ネームも知らなかったなんて。聞いたら覚えてるはずだもの」
「どす黒い陰謀の渦巻く一族の巣窟だからな」
「でもなぜこんなボロ、いえ、趣きのあるフラットに?」

ルートヴィッヒは自嘲気味に鼻を鳴らした。

「俺は、継ぐつもりは一切ない。父もそれを望まなかったし、経営権だって放棄したようなものだ」

現在は彼の家の顧問弁護士だった人物を手伝いながら、大学で法学を学んでいるらしい。兄はどう考えてもパーフェクトに近い犯罪者だというのに。「あっそう……」と乾いた笑みを浮かべていると、ルートヴィッヒはにわかになまえの正面へ回り、深刻な表情で距離をつめてきた。

「今回の件は、本当に申しわけなかった」

真摯な青い瞳に、なまえは思わず体を硬直させた。平静を装いながら、なんとか首だけを左右にふる。

「べつに、あなたが謝らなくても。そりゃ驚いたし、まだ現実かどうかも疑ってるくらいだけど、どちらにせよこれでストーカーに殺される心配も――クソ!痛い!」

うっかり壁面に掌を擦ってしまい、悪態が飛びだす。

「手をどうかしたのか?」
「あー、何でもない。ちょっと今朝」

いい歳して屋外で転ぶなんて、どんくさいにもほどがある。なまえは絆創膏の貼られた手をちらりと掲げると、そそくさとひっこめ、戸口へ視線を移した。

「それより、もう遅いですし……。私たちも戻って休むべきだと思うんだけど」

夕食もまだだったが、食欲は限りなくゼロに近かった。欲しいのは、この恐ろしくカオティックな一日に終止符を打つための睡眠だ。なまえはわざとらしく能天気な笑みを浮かべ、眉根をひそめるルートヴィッヒを促した。



 

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