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 何にせよ結局は、ふりだしへ戻る。アーサーはどうだか知らないが、私にとっての幸福は、少なくともイビサ島にはないだろうと思ったので。そもそも他に行くあてがなかったわけだが、”今世界で最も気まずい相手であるフランス人が取り残されているかもしれない自宅”をのぞいては。
 2度も逃げだした私に呆れて、どうか帰ってくれていますように。閉じまりもしておいてくれたらなおのこと。

 そんな勝手な期待を抱いて戻ったら、
 
1.鍵が開いていた
2.部屋がちょっと片づいていた
3.中には誰もいなかった

以上の要因により、私の怒りのキャパシティは崩壊した。2つ目も個人的にはおかあさんみたいで癪にさわるが、好きだの本気だのと散々ほざいてあのオッサン、あっさり引き下がるだなんて。気まぐれるのも大概にしろよ。クソ妖精め。
 待っていてほしくなかったのに、待っていたら困るくせに、その通りになったことに私は腹を立てた。扉を乱暴に閉めると、ふたたびアパルトマンの短い階段を下りはじめる。一体どこへ行こうものか、自分でも分からない。とにかく、もうたくさんだと思ったことは確かだった。
 うんざりだ。鋭いリフ。ギターの音。中庭で、誰かがオーディオを、かなりの音量で流している。それに混じって、遠くから誰かを呼ぶ声がする。

「おーい、こっちこっちー」

欄干へ身を乗りだすと、麦わら帽子の男がこちらへ手を振っているのが見えた。農夫のようなルックスの彼は、まぎれもなく”今世界で最も気まずい相手であるフランス人”その人だった。

 一体ぜんたい、なんだというのか、あの人。バカじゃないのかしら。

 私は「J'en ai marre!J'en ai marre!J'en ai marre!(もううんざり!うんざり!うんざり!)」と声を押し殺すように叫びながら、中庭の方へ駆けおりていった。廊下ですれ違った老人はそんな私に驚きもせず、「C'est vrai.(そのとおりだよ)」と穏やかに微笑んだ。

 当アパルトマンの管理人である彼は、ジョニー・マーの大ファンである。


* * *


「管理人のじいさんに捕まって、草むしりさせられちゃった。きれいなもんだろ?」

フランシスさんは特に悪びれもせず、そう云った。濃厚な緑の匂いが立ちこめる庭の真ん中で。水まきホースを片手に、シャツからのぞく汗ばんだ肌と、うっすら土のついたむきだしの腕が嫌味なほど絵になっていて、腹が立つ。

「……ふつう、そこで草なんか、むしらないでしょう。あなたバカじゃない……?」
「おまえこそ、まだかわいい寝癖つけて」

へらへらとした甘ったるい音が降る。私は息を整えながら、彼の足もとへ目を落とした。鮮やかな黄色い革のサンダル。彼の手が私の髪をすくって耳にかけたが、ふり払う気力もない。声がやさしいのが、かえって私をみじめな気持ちにさせた。触れた指からする花の匂いも。
 一体どうして、ここへ戻って来たのだっけ?アーサー、なにも幸せの青い鳥のすべてが、住みなれた自宅にいるとは限らないじゃないの。
 
「フランシスさん」
「なあに」
「私のこと、ふりまわして楽しい?」

どうしてこんなに悲しいの。

「なまえは、追いかけてほしかった?」
「質問しているのは私のほう」
「……ああそうだな、ごめん。もしかすると俺、ある種の被虐趣味があるのかも」
「なにそれ?」
「おまえの怒り方ってときどきママンみたいね」

なにそれ、と私は再度云った。また話が見えない。意味が分からない。これ以上感情が昂ったら、きっとみじめに泣いてしまう。その証拠に地面がぼやけてゆくのが見えた。

「なまえ」

うつむいたままの私の頬を軽くなでて、フランシスさんはそこへキスをした。酔っぱらって、別れ際にやるようなやつだ。お誕生日だとか。落ち込んだり、かわいそうな動物のテレビ番組で泣いたときなんかに。

「あそこ、薔薇があるでしょ」
「……は?」

彼が顎でさした方へゆっくり目をやると、花壇のすぐ横に、水滴の光る束がよけられていた。白い薔薇だ。香水か何かの匂いだと思ったのに。そういえば、庭先に群がるように咲いていたはずの苗木が、今はバランスよく整えられている。よく見ると、彼の腕や手の甲には小さな擦り傷もいくつかあった。

「草むしりのお礼にって、もらったの。リビングの窓のところに飾ったら、壁紙の色によく映えると俺は思うんだよな。なまえはあの緑、濃すぎて嫌いだって前に云ったけどさ」
「……云った……ような」
「白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』」

知ってた?と首を傾げられたけれど、知っているはずもない。

「いつでも思いつきで行動する類いの人間じゃないって、信じないかもしれないけど、なまえ。俺だって、衝動に身をゆだねてしまえるほど若ぶっちゃあいないんだぜ。そりゃ知り合ってこの2年くらい、ずっとおまえにムラムラしてるけど。大事に大事に積み上げた関係がパーになるんじゃないかって、本当のところ、ちびりそうなほどビビってんだもの。おまえに追いついても、『ふさわしくない』って拒絶されるのが怖かったんだよ」

喉が震える。彼の言葉の意味を理解するのに意識を集中させるあまり、うまく自然に呼吸ができているかどうか、自分では分からない。温かな手はまだ頬の上にあって、私は動けない。
 追いかけなかったくせに。
 追いかけなかったくせに。
 待っていなかったくせに。

 いや、結果的には待っていたのかもしれないが。逃げたのは私の方か。

「……それでも私、たぶん追いかけてほしかった」
「ごめん。格好悪いね、俺」

フランシスさんは自嘲気味にそう云って、私の髪をゆっくり梳いた。

「正直云うと、逃げられてお手上げだった。なまえってさ、見かけによらず足速いのな」

もう俺おじさんだもん。と頷いた顔は、薄茶色のレンズのせいで、まるで頬に赤味が差しているように見えた。

「あんまり……急すぎるから」
「うん?」
「だから、逃げられちゃうんだ。バカじゃないの」
「はあ。仰るとおりです」
「もっと、ちゃんと段階を踏まないと、相手も困るでしょう」
「心得ます」
「びっくりするでしょう」
「すみませんでした」
「以後気をつけて」
「うん。……抱きしめてもいい?」
「汗臭いからやだ」
「ひどい!じゃあキス」
「舌入れたら絶交ですよ」

いつの間にか、音楽は聴こえなくなっていた。
 こんなところだけはなぜだか律儀に、唇に触れるだけのキスをした彼の顔が離れていくのを見送りながら、ずれたDITAのサングラスを戻す。フランシスさんは楽しそうな、心なしか不満そうな、何とも云えない顔でこちらを見ていた。
 気まずい沈黙がやって来たが、すぐに立ち去って行った。こんなものなのだろうか。

「……ずっと、気になってんだけどさあ。このサングラスどうしたの」
「もらったの。カフェで」
「え? 誰に?」
「それより、あれ。部屋に飾ってくれるんですよね」

私は質問には答えずに、花壇の脇へ体をかがめた。たしかに、この明確な白は色の濃すぎるあの壁紙を品よく見せてくれるかもしれない。棘がきれいに除かれているところが彼らしいと思う。フランシスさんはそれでも私の手をゆっくり制して、白い花束を拾い上げた。

「薔薇には『幸福』って意味もあるんだよ」
「ふうん」

アーサーのばかやろう。

「あいにく私、小鳥の歌声よりもパンを選ぶ人間ですよ……」
「腹減ったの? だったらついでに何か作ろうか」

ほんのちょっとした管理人の気まぐれらしい、再びどこからかギター音が聴こえはじめたが、私の記憶が確かならばそれはジョニー・マーの手によるものではないし、誰かさんの夜遊びのアンセムと呼ばれるものに違いなかった。そういえば先月、彼に貸したのをすっかり忘れていたのだ。

「なまえ、何がいい?」
「あ、ええと、ブフ・ブルギニョンが食べたいです」

彼は私の返答にきょとんとしたあと、アパルトマンの階段にかけていた片足を下ろした。おまえねえ。あれ作るとなったら俺すごいのよ、と薔薇を持っていない方の手で指折り数えて見せる。端正な顔のすぐ横でゆわえられた金色の毛束には、まぬけなウサギのゴムがまだついていた。ウサギはずいぶんと前からそこに定着していたかのように、よく馴染んで見えた。

 気のせいだろうか?

「まず買い出し行って、下ごしらえから始まって、それから煮込んでだろ。最低でも二日はかかるよ。泊まり込んでもいいなら作ってやるけど」
「……いいんじゃないですか、別に」

一瞬の間をあけて、ものすごい勢いでこちらを見たフランシスさんは、階段を踏み外した。
 今まで私が見たこともないような顔をしていたと思う。


Fin.


仏兄ちゃんは恋愛に関しては一番まともそう
10.9.24

 

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