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 「すまないな。恥ずかしいところを見せて」

ふり返ったルートヴィッヒは、もう普段の気丈さを身にまとっていた。さきほどまで実の兄を絞め殺しかけていた人物には見えない。下の住人から苦情がこなければよいのだが。

「……お兄さん、大丈夫?」
「我が家では普通によくあるつっこみだ。何か煎れよう。紅茶でいいか?」

なまえは咄嗟にかぶりをふり、自分でも驚くほど早急に、キッチンへ向かおうとする隣人の服の裾をつかんだ。たしかに喉はからからだった。しかし今なまえが欲するものは、"正しく綴じられた注釈入りの脚本"に他ならない。覚えのない容疑をかけられたのならなおのことだ。いまだに得体の知れない彼の兄とふたりにされるのが怖かった、というのもある。

「話に、不明点がありすぎて――何のことやらさっぱり。私にも一応、知る権利ってものがあると思ってたんだけど!」

ルートヴィッヒは青い目をぱちくりさせて、なまえを見下ろした。それから少し困ったように眉を下げて「そうだな」とうなずいた。その視線が向けられた先へ、つられてなまえも目をやる。

「訴訟の前に、自分から弁明したらどうだ?」

床で不貞寝に入っていたギルベルトが、のっそりと首だけを起こした。

「おまえが云うと洒落に聞こえねえ……。つーか弟よ、そのムキムキがどこまで成長するか兄さんはいささか心配です」
「知っているだろうがジョークは得意じゃない」
「あのな、俺だって悪いと思ってんだぜ。悪意はなかったの!」
「……私の留守電に、フリオ・イグレシアスのアルバムまるごと録音したくせに?」

そのせいで今朝、メッセージがいっぱいになっていた。ひどく沈んだなまえの声にギルベルトは愉快そうに小さく笑ったが、ルートヴィッヒに睨まれてすぐに肩をすくめた。

 そうして語り部は、気だるいメルヘンを紡ぎはじめた。

 *

 隣人は、世事に疎いなまえですら耳にしたことのあるバイルシュミット家の出身、もとは武器製造で栄えた大手企業の跡取りだった。親族経営にありがちな権力争いが悪化する中でCEOの父親が病死、さらに葬儀の直前に兄のギルベルトが相続した会社株を勝手に売っぱらって失踪――と、ずいぶんドラマに事欠かない人生を送ってきたらしい。ヴィスコンティの映画にこんな話があった気がするが、殺人が起こっていないだけましだろうか。

 しかも、物語はそこで終わらない。

 ギルベルトは企業内にはびこる不正情報を盗みだし、あろうことか上層部に脅しをかけていたという。正義の行方はともかく、立派な犯罪者予備軍というわけだ。迷惑メールや無言電話など、それこそ子供の悪戯である。

「そういうのって、映画か娯楽小説の中だけかと……」
「だからこそじゃねえか。おまえも読んだんだろ?」

首をかしげるなまえの背後へ、ルートヴィッヒが手を伸ばした。棚からだされたのは見覚えのあるペーパーバックだ。ギルベルトは口端をにやりと持ち上げて、「ステキな元ネタの提供者は?」と笑う。なまえは『第一部』と書かれた表紙を見つめたまま、ぽかんと口を開けた。

「ちょっと待って、だってこれ、フィクションって」
「そりゃ、脚色してるからな。役員と資産家の愛人がクソミソに死ぬのも今のとこ事実じゃねえし。それ書いたやつ、もとはファンタジー作家でよ。加湿器いらずの万年ジメジメ男、陰気な描写が標準装備の」

ルートヴィッヒが掌で顔を覆う。

「……悪趣味だ。腹いせにこんなものを書かせて、公表するなんて」
「目立つことなら基本的に何でもするのが俺の主義」

出版されるなり、ギルベルトは社員全員の自宅とルートヴィッヒのもとへ、無記名で本を送りつけたのだという。たしかに内容に沿うならば、不正に関与した人間はかなりグロテスクな末路をたどることになる。内部事情を知るものは肝を冷やしたかもしれない。

「でも、結局それじゃ、私はなに? イレギュラーって?」

ギルベルトは露骨に哀れむような顔でなまえを見た。

「どこまで無害なお嬢ちゃまだよ。マジで一切なんも知りませんってか」
「マジで一切なにも話してもらっていないので」

意図したわけではない批難がましい口調に、ルートヴィッヒが視界のすみで気まずそうに横を向いたのが分かった。

「おまえの――今、住んでる部屋な。ありゃ、うちが確保してる物件だ。前は監視役に雇われた気味悪いやつが入っててさ、探偵に毛のはえた素人ってかんじの」
「監視?」
「そういう異常な一族なんだよ、選民意識に取り憑かれてんだ。品行方正なルートヴィッヒ君を懐柔して、アイコンに仕立て上げようって腹だろ」

ふん、とギルベルトが鼻を鳴らした。

「ピーピング・トムはちょっとビビらせりゃすぐ引き払ったけど、部屋はもしもの保険で押さえてあった。おまえの勤め先の管理部にツテがあったんだな。で、次に入ったのは若い女だが、情報をどんだけさらっても何にも出ねえ。やつらと繋がってる素振りもねえ――でも偶然にしちゃ怪しい。俺の弟は小学生レベルの恋愛オンチで、女友達なんざ不自然だ。何より俺がこいつを訪ねていこうとするたびに、おまえら、何やかんやで一緒にいやがるんだよ!」

苦々しく指をつきつけられ、なまえは一瞬たじろいだ。背後のルートヴィッヒをふり返ると、彼もやはり同じように当惑しているようだった。うっすら首筋が赤くなっている。それを見てもいつぞやのように、ワア綺麗、などと感心してはいられない。なまえはゆっくり正面に向き直ると、つとめて淡白に尋ねた。

「それじゃ、要するに私…………とばっちり?」

ギルベルトはあっさり「うん」とうなずいた。

「途中で『あ、こいつやっぱ関係ねえわ』と確信した。でもま、せっかくだから俺様の崇高な存在を胸に焼きつけてやろうかと……」

 気が遠くなる。無視をきめこんでいたとて、"騒ぐほどではない"と口にしたとて、なまえは不安には変わりなかった。不必要なストレスにさらされて、夜はよく眠れず、電話やメールに敏感になり、外をひとりで歩くのが怖かったのだ。ほんとうは。ギルベルトが肩に手をかけたとき、さすがに泣くかとさえ思った――すべては杞憂だったわけだ。

 なまえはできることなら目の前の男にスープレックスをかましたかったが、顔面にクッションを投げつけるにとどめた。いつか機会があれば、クリケット・バットでぶっ叩いてやりたいとは思う。



 

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