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 「――何やってんだ、兄さん!!!」

目の前で、お手本のように美しいスープレックスが決まった。

 部屋中に鈍い落下音が響きわたり、家具がぎしぎしと揺れる。なまえは短い悲鳴とともにソファから飛び上がった。ますます一体、どういうわけなのか。おろおろするなまえを尻目に、体勢を立て直したルートヴィッヒは、足下に転がる人物を冷めきった目で見下ろした。

「俺のためとは笑わせる。ギルベルト、おまえはバカだ」

吐き捨てるような口調だった。

「……ふざけんな。俺は天才だぜ」
「いいや、許しがたい大バカだ」

あれだけ激しく床へ叩きつけられたのに、ギルベルトはあっさり上体を起こしている。声がひどくざらついて聞こえるが、なまえの位置からでは表情は見えない。

「親父が死んで、俺がどれだけ兄さんに一緒にいてほしかったか分からないとは云わせんぞ。そんなことのために消えたのか? 何も云わずに、せめて、俺にだけは話してほしかったのに!」

白い肌を上気させたルートヴィッヒが、ヒステリックに大声を上げた。なまえが思わず肩を震わせると、センサーのような淡い青の瞳がこちらを向き、目と目がかち合う。息を殺しながらまばたきを繰り返すなまえを見て、それらは気まずそうにそらされた。

「正直なところ、おまえが洗いざらいタブロイド紙に話そうが、会社を脅迫しようが俺は構わない。だが、無関係の人間をどれだけ巻き込むのかをよく考えろ」

ギルベルトは沈黙している。

「それに、復讐のつもりならそれは違う。おぞましい富の恩恵を受けていたと云うのなら、一族全員が同罪だ」
「罪悪感と良心に訴えかけようってのか?」
「違う、誰にとっても正しいことなどないと云っているんだ。不正を暴いたところで親父は帰らない。会社が死なせたわけじゃない」

「法学生の口から出た言葉とは思えねえな」とせせら笑うギルベルトの声に、ルートヴィッヒの瞳が、少しだけ哀しそうに伏せられた。

「もちろん、事実があるなら隠蔽すべきじゃない。だが、おまえもバイルシュミット家の人間には変わりないだろう。叔父貴が事情をどこまで掌握しているかは知らないが――話くらいは聞いてくれる人だ。名誉毀損で訴えられる前にな。まず必要なのは、話し合いだ。そうじゃないか? だから、戻ってくればいい。とにかく一緒に、顔を見せに行こう。誰も兄さんを責めちゃいない」

差しだされる大きな右手。

「少なくとも俺は、会えてよかったと思ってるんだ。ずっと、死ぬほど心配して……」

言葉をつまらせたルートヴィッヒに、座り込んだままだったギルベルトの首が向けられた。宙に浮く掌を見上げている。しまいに小さくため息を漏らすと、苦々しい舌打ちの音とともに、ゆっくりと手が伸ばされた。

 そうして指先が触れたとたん、鮮やかな腕ひしぎ十字固めでギルベルトはふたたび硬い床に沈んだのだった。



 

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