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 シナノキの街路樹の下で、なまえはぴたりと足を止めた。もうフラットは目の前だが、通りをはさんだ向かいに車が停まっている。青いプジョーだ。

 やはり中には誰も乗っていない。妙な緊張が走ったが、なまえは恐る恐る、今日こそはナンバーを控えるつもりで車へゆっくり近づいていった。ほんの3メートルほど手前まで来たところで、大きな手がなまえの肩を掴んだ。
 
 背後に男がいる。

 男はなまえの腕を押さえて身をかがめ、「大人しくしろ」と耳元で囁きかけた。なまえは完全に不意をつかれて、硬直したまま自分の脳が紡ぎだす単語を追いかけた。痴漢、サイコパス、こいつはストーカーだ、暇人の。恐怖が背筋をぞくぞくと駆け上がる。咄嗟に体の向きを変えると、ふり向きざまに頭突きをかまそうとして――相手とばっちり目が合った――なまえは口をぽかんと開け、思いきり息を吸い込んだ。

「……え?」

 間の抜けた叫び声が響き渡り、木の上にいた鳥たちがバサバサと飛び立った。フラットの入口から誰かが自分の名を呼びながら飛びだしてくるのを、なまえはぼんやりと目にとめた。ルートヴィッヒが、恐るべきスピードでこちらへ駆け寄ってくる。そうして、やけに慣れた手つきで男の腕を一気にひねり上げた。なまえが我に返ったときにはすでに、男はうつぶせで地面に押しつけられていた。

 何が起きたのか分からなかった。しかし、この際どうでもよい。混乱する頭がまず導きだしたのは、"警察"の二文字だ。ぶるぶると震えてやまない手を無理に動かし、なまえはポケットから携帯電話を取りだした。

「待ってくれ。電話は――警察は、呼ばなくていい」

なまえを制し、ルートヴィッヒはどういうわけか拘束をあっさり緩めると、男の上から身を起こした。その顔にははっきりと困惑の色があるが、どこか諦めの表情にも似ている。

「ひとまず落ち着いてくれないか。もう大丈夫だから」

なだめすかすようにそう云いながら、ルートヴィッヒはなまえの手から今にも二つに折られそうな携帯電話をそっとつまみあげた。

「ねえ、いま落ち着けって云った? 大丈夫って何のこと? あれは誰で、あなたの何?」

完全に疑心暗鬼になり、ルートヴィッヒからも後ずさるなまえを見て、ストーカー男がフンと笑った。男は身動きができるようになっても逃げる素振りを見せず、それどころかのんきに横たわったままの姿勢で、やけに嬉しそうにルートヴィッヒに向かって「よお」と手をあげている――不安になるほど赤い、その燃えるような色の瞳にも驚いたが、それよりもなまえが信じがたかったのは、輪郭や雰囲気こそ異なるものの、その顔が自分の隣に立っている人物と非常によく似通っているということだった。

「ひとまず座って話をしようぜ、お嬢ちゃま。危害を加えようってんじゃねえよ。俺は、物騒なやり方はあんまり好きじゃねえしな」

にやりと口端をつりあげた男を見下ろしながら、ルートヴィッヒがため息まじりに云った。

「一体どういうつもりなのか、説明してくれ。兄さん」



 

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