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 溜まりに溜まった一週間分のゴミとともに廊下へ出ると、同じように大きなポリ袋を抱えた隣人とはち合わせた。つくづくタイミングというやつは、なまえに味方をする気がないらしい。

「おはよう。怒ってるんだな」
「おはよう。怒っていません」

なまえは明らかに不機嫌な声でそう答えた。

「嘘をついても仕方ないだろう、責めてるわけじゃない」

低い声と足音とが追いかけてくる。ぶっきらぼうだがどこか遠慮がちな物言いは、一段となまえを苛々させた。

「そうね。それじゃ認めるけど、怒ってます。顔面に飛び蹴りを入れてやりたいくらいには」

にっこり笑ってふり返ると、ルートヴィッヒは驚いたように身を引いた。

「クソったれストーカーに追いまわされているのは私で、それが自分に関係していると匂わせたくせに、わけの分からないクソみたいな理由であなたはそれをクソ忌々しくも隠しているんですから」

相手は立ち止まったまま、たっぷり5秒間は黙っていた。やがて口を開くと、「女性がそうクソクソ云うものじゃない」という素敵な助言をよこしてきたため、なまえはいよいよ本格的に腹が立った。ひとりでさっさと階段を下りはじめたが、忌々しくも長い足の隣人はすぐに追いついた。

「確実なことは分からんから、闇雲に用心するしかないと云ったんだ」
「でも"何か"は知ってるわけでしょう?」
「関係があったら、なおさら巻き込めない」
「もう巻き込まれてる。朝からこんな異常な会話……」

上の階に住むご婦人が通りかかり、なまえは云いかけた言葉を挨拶に切りかえ、ルートヴィッヒは彼女のためにドアを押さえてやった。ご婦人は「おやおや」とおもしろそうな顔でこちらを見ながら、そそくさと出て行った。ふたりはそのまま、外のダストボックスの前まで一言も喋らずにいた。当初のぎこちなさが復活したような、居心地の悪い沈黙だった。

 「そもそも、あなた自分のことを話さないもの」

コンテナへ乱暴にゴミを詰めこむなまえに、ルートヴィッヒが訝しい視線を向けた。

「それなのに私の生活に介入してコントロールしようとするのは、フェアじゃないですよ」
「話さないというならそちらが先だろう」
「どういう意味?」
「騒ぐことでもない、話しても仕方ないと云ったじゃないか」

なまえの見間違いでなければ、見上げたルートヴィッヒは少なからずいじけたような表情をしていた。淡い青の目だけは、揺るぎなくこちらを向いている。両手が空になってしまうと妙に落ちつかなくなり、なまえは鞄の取っ手部分をぎゅっと握りしめた。

「本当に、大したことないから。理由も分からず何かを強いられるのが我慢ならないだけ」
「分かってる。俺だって怒らせたいわけじゃない、ただ」

彼はそこで言葉を切り、もどかしそうに眉をひそめた。

「信用してほしい、とは思う」

なまえは、芝生を踏むパンプスの爪先をじっと見つめた。自分の云い分は正しい、絶対に先に目をそらすもんかと思っていたのに今日は耐えきれなかった。怒りが徐々に霧消して、代わりに別の感情が沸いてくる。なまえは口をへの字に曲げ、喉の奥で呻いた。

「信用って、云われてするものじゃないと思うけど……」

もごもごと呟きながら、何気なく腕時計に目を落とす。実際のところ、悠長に話している時間ではなかった。部屋着のままのルートヴィッヒもそれに気がついたらしく、「とにかく帰ったら話そう」と促した。なまえはまだ歯切れ悪く唸っていたが、やがて頷くと、メインストリートへ向かって小走りに駆けだした。

 知らず知らずのうちに、動揺していたのだろう。

 ちょうどバス停の手前で、なまえは盛大に――それはもう、まるでお手本のように――転んだ。逆に怪我のしようがないほどの見事な転倒に、子供たちは容赦なく笑い、大人たちは哀れみの目を向けた。さまざまな感情に打ちのめされているなまえにとどめを刺したのは、直後に届いた一通のメールだった。

『地面とのランデヴーはどうだったい、お嬢ちゃま?』

 なまえは恐怖よりもむしろ、憤怒で自分が青ざめるのを感じた。幼いころ、いじめっこの男子にからかわれたときと同じ類の苛立ちだった。転んだのは自身の不注意である。しかし、今は世のすべての不幸の元凶が、この忌々しい暇人だと思えてならなかった。森林破壊も経営破綻もバルトアンデルスのしわざなのだ。ランデ・ヴーの綴りも間違ってるし。

 「Verdammt, wir leben noch!(ちくしょう、我々はまだ生きている!)」と叫んだなまえに、通りすがりの老人が目を丸くした。



 

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