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 やけに焦燥をはらんだドアベルが響く。大家にもらったアーティチョーク軍団と格闘中だったなまえは、タオルで手を拭いながら玄関へ向かった。

「なぜ電話に出なかった?」

第一声はそれだった。怒ったような口調のルートヴィッヒによる威圧感に、なまえは喉の奥で小さく息を飲んだ。

「え? なに、電話?」
「2時間前から5回はかけた。聞こえなかったのか」

よほど急いだのか上着もそのままである。なまえは、電源を切ってベッドに放った携帯電話を思いだし――このところ夜にかかってくる無言電話のせいだ――気まずそうに肩をすくめた。

「あなたからだと思わなくて。どうかしました?」
「いや、何もないならいい。てっきり何かあったかと……」
「なにかってなにが」

ルートヴィッヒは何も答えず、ただ落ちつきのない様子で額に掌を当てている。きれいに上げられた前髪が、一房、はらりと落ちた。手を伸ばしてなでつけたら怒るだろうか、とふと考えたあと、なまえはこんなときに馬鹿げたイメージを浮かべる自分の脳に困惑した。

 「最近、身のまわりで変わったことはないか?」

とりあえず部屋に招き入れ、テレビの音量を下げる。ルートヴィッヒはソファに座るなり、口早にそう尋ねてきた。なまえはテーブルに広げた萼をボウルに投げ入れながら「薮から棒ですね」と眉をひそめたが、相手の深刻めいた空気に圧され、手を止めた。

「まあ、あると云えば。そう騒ぐことでもないとは思うけど――」

なまえはぽつぽつと話しはじめた。少し前から送られてくるメールや電話について、外で妙に視線を感じることや、同じ車を何度も見かけていること。もっとも、ただの悪戯か気のせいに違いないし、なまえはとことん無視をつらぬく方針を固めている。こういうものは気にしたほうが負けなのだ。近頃はむしろそんな状況にも慣れたと伝えると、ルートヴィッヒはあからさまな呆れ顔で頬杖をつき、じろりとなまえを見た。

「どうして相談しなかったんだ。そんな目に遭って」
「だって、大したことじゃないから。直接に害があるわけでもないし、話しても仕方ないもの」

ますます不機嫌そうに眉間に皺がよる。いつもは美しいと感じる淡い瞳も、今日は冷え冷えとした硬い色に見えた。

「たぶん俺だ」
「は?」
「一連の出来事は、俺が原因かもしれない」

水を張ったボウルに勢いよく、なまえの左肘がつっこんだ。

「ええと、ごめん。あなたが何を云っているのかよく分からないんだけど」

テーブルにあるタオルをよこしながら、ルートヴィッヒはまた大きくため息を吐いた。なまえは何となくその態度にむっとして、礼も云わずにタオルを受け取ると袖にあてがった。ルートヴィッヒはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「俺も確信があるわけじゃない」
「そうなの?」
「そう。だからきみには説明できないし、する気もない」

立ち上がる彼を、なまえはぽかんとした顔で見上げた。

「とにかく、外ではあまり一人にならんほうがいいだろう。帰りが遅い日はタクシーに乗るか、あるいは誰か、できれば男性と一緒に……」
「ちょっと待って。そこまでする必要があるとは思えないし、それに嫌ですよ。第一、そんな人いないもの」
「だったら俺に云えばいい」
「原因は”あなた”かもしれないのに?」

ルートヴィッヒは苦々しげに口をつぐんだ。めずらしく狼狽しているようだが、今のなまえにはそんな光景ですら、憤怒のロウソクに火をつけるものでしかない。もともとこの隣人に謎めいた部分はつきものだが、今日の彼は明らかにおかしい。一方的で理不尽で、今までで一番わけが分からない。いや、分からなくなったのか。

「あなたが話したくないのなら、私もこれ以上、云うことなんか何もないわね」

口ぶりだけはごく軽い調子でなまえはそう云った。こちらを射殺すほどまっすぐに落ちた青い対の目は、それを合図に、ふい、とそらされた。まるで”待て”をしていた犬のように。

 テレビの光が視界の隅で瞬き、かすかに聞こえる音声が料理番組の終わりを告げていた。レシピを見逃したな、と思いながら、なまえは湿った左肘へ手をやった。ルートヴィッヒは静かに「おやすみ」を云うと、部屋を出て行った。



 

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