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 「そりゃあんた、貴重なモテ期がきたのよ。髪型変えた?」と友人には云われたが、なまえの姿が先月とも、先々月とも代わり映えしていないのは誰の目から見ても明らかである。

「賭けてもいいけど、絶対にそういうのじゃない。今週はどうも運が悪くて、音楽会のチケットはとれないし、朝焼きのパンは売り切れてたし、カード会社のミスで支払いはストップされるし……」

どういうわけか、なまえは些細な不運に立て続けに見舞われていた。ひとつひとつはそう大きなものではないが、自分は神様の機嫌を損ねることをしただろうか、となまえは思い返してみた。むろん、心当たりはない。

「バルトアンデルスからのメールはどうなった?」
「ああ……あれ。まだ来ますよ、受信拒否にしてアドレスも変えたのに」

例の意味不明ジャンク・メールも、いまだに届いていた。初歩的な対策など鼻にもかけず、あいかわらず妙な文章や引用やらを律儀に送りつけてくる。いつも決まってアドレスに"baldanders"と書かれているので、何気なく送り主をそう呼んでいた。もちろんなまえにはその単語に見覚えはないし、気味は悪くとも、とくに実害がないため無視するよりほかに手がない。

「ストーカーかもしれないわよ。気をつけないと」

なかば茶化すようにそう云われても、何をどう気をつければよいのかなまえには皆目分からなかった。



 不穏なできごとはあれど、全体的に見れば日々は平和に流れている。なまえは週末、ようやくルートヴィッヒをなじみのカフェに連れてくることに成功していた。真面目で愛想のないイメージは変わらないが、慣れてみれば彼の話は知的で面白みがあるし、ときおり訪れる沈黙も今となっては気まずさはあまり感じない。なまえは知らず知らずこの隣人のことを、親しい友のように認識しはじめていることに気がついた。

 すっかり冷めたコーヒーをぐるぐる掻き回しながら、なまえは「そういえば」と口を開いた。

「"バルトアンデルス"って知ってます? お話に出てくる怪物らしいのだけど」
「『阿呆物語』だろう。グリンメルスハウゼンの小説だな」

なまえは読んだことがなかったが、どうも有名な古典文学らしい。身寄りのない主人公が波乱の人生を歩む冒険譚だそうで、バルトアンデルスは作中に登場する、さまざまに姿形を変えられる時間の魔物だという。

「うちの家族はその話が好きで、小さいころによく読んでもらった。恐ろしく長い本だし、途中にかなりエグい描写なんかもあるが、子供に配慮することを知らない連中ばかりだったから……」

残りのコーヒーを飲みほすと、ルートヴィッヒは遠くへ視線を泳がせた。淡い色の瞳がふっと陰ったように見えたが、それはほんの一瞬で、すぐに彼はこちらを向いて「なぜそんなことを?」と不思議そうに尋ねてきた。

 話すべきか、話さぬべきか――深く考えなくとも分かることだ。なまえはすぐに首をふって、そろそろ帰ろうと促した。薄く色づいた窓ガラスでは分かりにくいが、外はすでに日が落ち、暗くなりはじめていた。ルートヴィッヒも椅子を引き、静かに立ち上がる。彼が上着にすっかり手を突っ込んでしまう前に、なまえは掌をぐいっと突きだしてストップをかけた。

「おっと。ここは私が支払うので、どうぞお先に」
「……財布なら忘れていないが」

彼がいつものように眉根をぎゅっと寄せたのには笑ったが、なまえはすぐに真面目な顔を作ってきっぱりと云った。

「いくつか分からなくなった借りを返すチャンスは、なかなか巡ってこないもの。黙って従うべきですよ」
「そうは云っても俺はもう覚えてない」
「じゃあ、次にお茶を飲みにきたときは、あなたに奢ってもらう」

それでどうだ、とばかりに紙幣をテーブルに置いてみせると、しばらく煮え切らない顔をしていたルートヴィッヒもやがて諦めて、「今回はそういうことにしておこう」と首を縦にふった。――実は、なまえは口にしたあとで、ごく自然に"次回"があるような云い方をしてしまったことに焦ったのだが、相手は気づいてもいないようだった。なまえは安心したような、自分だけが妙に気恥ずかしいような気持ちがした。

「見ていろ。目の回るような高級店に入って、恐縮させてやるからな」
「……またそういう意地悪を……」

彼がときおり放つ、ジョークか本気か判別のしにくい軽口に苦笑しながら店を出ると、向こう側の通りに青いプジョーが駐まっているのが見えた。中に人の姿はないが、それが視界に入ったとたん、なまえはわずかに体が硬直するのを感じた。

「どうかしたか?」

隣に立つルートヴィッヒには黙っていたが、この何日間かでまったく同じ車を数回見かけている。ナンバーまでは確かめていないが、間違いないだろう。なまえはそれが自分の考えすぎではなく、ただの偶然でもないと確信した。



 

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