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 テーブルは干されたジョッキの軍勢に占領されかけている。週末らしく、混みあったビアパブは宴もたけなわで、そこらじゅうがまるごと橙の灯に染められているようだった。喧噪に抗って声を張りあげれば、ますます空気は熱をおびた。

「かわいいよね、うちの国でもテレビでやってる。おなかからドアとか出すんでしょ?」
「……ロボットを猫型にする意味が分からんのだが」
「何を云うんです、母国情緒かくあるべしといったあの造形が魅力なのに!」

「犬じゃだめなのか?」となぜか拗ねたように云うルートヴィッヒがおかしくて、なまえは笑い声を上げた。彼の放った文章を口の中で転がしてみる。「それ気に入ったわ」となまえはうなずき、フェリシアーノと声を揃えてもう一度云った。「犬じゃだめなのか?」

 早い時間から飲みはじめたため、すでにかなりの量のアルコールと料理が胃袋を満たしていた。当初あったぎこちなさはどこへやら、めちゃめちゃに入り交じった奇妙な言語で3人は話しに話しまくった――「見ててごらん。あいつ、お酒が入るとお喋りになるから」とフェリシアーノから耳打ちされていたとおり、酔ったルートヴィッヒは別人かと思うほどに口数が多かった。そのことはなまえをふたたび驚かせもしたし、喜ばせもした。恐らくは、あながち酒のせいだけでもないのだろう。

「ほんとうに、仲良しなんですねえ」

世話を焼き、焼かれるふたりを前に思わずしみじみ呟いてしまったのだが、ルートヴィッヒは即刻こちらへ指をつきつけて「ゲイじゃないぞ」と云った。ほんのり頬が上気し、普段のしかめっ面もかなり緩んで見える。

「だから、そういう反応もどうかと思う。差別主義者?」
「もっと違う!」
「なまえ、俺が好きなのは女の子だよ!そりゃ、俺はこいつのベッドで寝てるけど……」
「そういう発言が誤解を生むんだ」
「だってホントだもん」
「この国でも外務大臣が男性と結婚してたし、愛の形は様々ですよ。私は支持する」
「外相のは同性婚じゃなくパートナーシップ法だ。そもそも俺たちはそういう関係じゃない、どうして誰も俺の話を聞かないんだ?」

空になったジョッキの数は、さらに増えた。

 *

 まだ宵の口、といった時間帯には店を出なければならなかった。
 
 なまえとルートヴィッヒが例のミステリ小説の感想を述べていると、すぐさま会話に飽きたらしいフェリシアーノが(「映画になったら女の子とデートで見るよ」)、店の壁に飾られたリュートを勝手に爪弾きはじめた。見知らぬ客たちと大いに盛り上がり、しまいには不満を云うギャラリーの輪から彼を引っぱりだすことになった。フェリシアーノは最後に「Arrivederci!」と宮廷音楽家のように優雅なお辞儀をしてみせた。
 
 「あーあ。俺ほんと困る、帰りたくなくなっちゃう。さすがにパスタとワインは恋しいけど」

空港までのタクシーを拾える通りへと、3人は心なしかゆっくり歩いた。フェリシアーノは今夜の便でヴェネツィアに戻るのだ。酔っているせいか、彼の話し声は高らかに弾み、ほとんど歌のように路地に響いた。

「ね、ルートヴィッヒー」
「なんだ」

ひどく優しく、甘く、穏やかな横顔。なまえは何となくそうしたほうがいいような気がして、ふたりから歩みを遅らせた。ふたつの背中のシルエットが微笑ましい。

「俺さー、ローマの爺ちゃんとこに呼ばれたの。今年こそはって。兄ちゃんと3人で暮らすかも」
「……そうか。いいことじゃないか」
「うん。でも、ドイツからはちょっとだけ離れちゃうね」
「飛行機で飛んでしまえば、せいぜい数時間だろう。今までと何も変わらん」

 別れ際、フェリシアーノからハグとキスを執拗に要求され、「はいはい」と素直に応じるルートヴィッヒの姿を見たとき、なまえはさすがに多少の決まりの悪さを覚えたが――やはり彼ら、そういう仲なのでは――いや、だとしても問題があるわけではない。ともかく、ふたりは心から信頼し合える間柄であることには違いない。隣人にそういった親友がいることが、なぜだかなまえには非常に照れくさく、また嬉しいようにも感じられた。そう思うことにしたのだ。

 フェリシアーノは、さも当然と云わんばかりになまえにも同じことを要求し、くるんと飛びでた巻き毛を揺らして帰って行った。



 

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