buch | ナノ




 「俺はなあ、この夏は、クソ仕事で溜まりきったストレスをバカンスで消し飛ばす完璧なプランを立ててたの。アルコールとアシッド・ミュージック、そして巨乳のオネーチャン……。なのにおまえときたら、俺が何のためにわざわざユーロスター乗って、ド・ゴールなんかから飛ぶと思ってやがる!イビサ島が俺を待ってるのに!もうやだ!ばか!」

パキパキした英国発音と「Bloody IBIZA!」が穏やかなカフェにこだまする。私は額の汗をぬぐった。携帯は電源を切ってポケットへつっこんである。
 脱走劇からは、約1時間が経過していた。

「レコード忘れたのは悪かったってば……。酔ってないよね?」
「酔ってない」

パリのカフェではよくある”鉄瓶で淹れた紅茶”はお気に召さないらしく、アーサーは訝しい顔でカップを見ている。疲れた顔だ。休暇前の詰めの仕事がパリであったらしい。さらに私が彼の”夏における夜遊びのアンセム”を持たずにのこのこ現れたものだから、彼のご機嫌は今や盛大にななめなのである。

「フランシスに取りに行かせようぜ。鍵の場所とか知ってるよな」
「……話聞いてました? 私あの人のこと、殴って逃げてきたんだけど」

聞いてたけどさあ、とアーサーは露骨にどうでもよさそうな顔でサングラスに息を吐いた。似合わないバミューダパンツから、不健康そうな青白い足がのぞいている。私は本日16回目の「あんた誰だよ」を紅茶とともに飲みこみ、欧州では”キャラを変えてみよう月間”なのかもしれないと自分に云い聞かせていた。
 私は藁にもすがりたい。それが心はすでに南国にある、若干テンションのおかしいバカンスモードのアーサーでもかまわない。何より今、家に帰るわけにはゆかないのだ。

「冗談だと思うなら流せよ。悩むってことは、真に受けてんだろ」
「真に受けていい相手じゃないもの!三ヶ月ごとにちがう美女を連れてたりするような人なのに……あの人……なぜあんな……。脳になにかが沸いたの……?」
「じゃあ、おまえのこと本当に好きなんじゃねえの」

そんなおもしろいことがあってたまるものか。

 勢いよくテーブルに額を打ちつけると、鈍い音とともに鉄瓶が跳ねた。一瞬、視界のすみに入った店主のおじさんの顔に不安が走る。アンティーク・テーブルが心配なのだろうか、それとも私の頭の中身のほうだろうか。
 顔を伏せたままで黙っていると、髪の毛に何かが触れて、私は静かに首を上げた。やんわりとこちらにチョップをかましていたアーサーが、いよいよ憐れみに満ちた目で私を見ていた。

「思いもよらない相手に急にガンガン来られたもんで、ビビってるんだよな」
「……え」
「あの変態は卑怯だから、おまえがうろたえてる隙をついてくるぞ。もう意識した時点で関係は変わって元になんか戻らないんだよ、覚悟を決めろ。おまえにとっての幸福とは何かを考えたまえ」
「幸福?」
「そう。そして俺の幸福は南方にある……」

芝居がかったセリフを吐くだけ吐いて立ち上がりかけた彼の腕を、私はとっさに掴んだ。

「い、いやだ!アーサー行かないで、連れてってよう!もう帰れる家がないんだもの!」
「モリッシーかおまえは」
「だってもしも信じて本気になったあと、気まぐれでしたごめんねって云われたら? 私は絶対に、もう二度と、立ち直れる自信がない……!」
「半殺しにして次の男探せ」

アーサーはレンズの大きなサングラスを、私の手にぎゅっと押しつけた。ぽかんと見上げる私に向かって「ダメならイビサに飛んで来い」と云うが早いか、さっさと出て行ってしまう。小ぶりのトランクを抱えた後ろ姿は、逆光で消え入りそうに見えた。
 呆然と彼を見送ったあとで、私は大事なことに気がついた。

 ちくしょう、おごらされた。



 

3/4

×
- ナノ -