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 なまえはその日、昼食をかねた遅い朝食を近所のカフェでとった。そのあと公園をのんびり散歩して、スーパーで食料品を買い込んで帰る。土曜は大抵、そんなふうにすごしていた。今日は少し遠まわりをして、フラットについたのは夕方ごろだった。

 なまえはいつになく上機嫌だった。めずらしく空は晴れて温かだし、お昼に食べたパストラミ・サンドイッチはパサパサしていなくて美味しかったし、公園で見かけた人のTシャツには笑ってしまったし(英語で『FART SEXY STYLE(セクシーなんてくそくらえ)』と書かれていた)、お気に入りのチョコレートも買った。今日はルートヴィッヒに本を返す予定だから、少しおすそわけしようとも考えていた。

 以前と比べて、隣人との関係はなかなかに良好だと云える。ルートヴィッヒはあいかわらず、おいそれとアポイントメントのとれる相手ではなかったが、顔を合わせる回数は確実に増えた。互いの生活時間を意識的に把握するようになったということだろう。会えば廊下で話をしたり、ものを貸し合ったりといった程度だが、なまえはそれでじゅうぶん満足だった。――このフラットへ越してきて約半年、ようやっと友だちらしい友だちができたのだ。

 古めかしい扉の前で、ドアベルを押して待つ。不在ならメモを残すつもりだったが、どうも室内がばたばたと騒がしい。わめくような人の声も一緒に聞こえる。客でも来ているのだろうかと訝っていると、突如、ものすごい勢いでドアが開いた。

「おっ、女の子だ! ようこそいらっしゃいませー」

見知らぬ半裸の男が、そこにはいた。

 なまえは一瞬、部屋を間違えたかと思ったが、すぐに奥から現れた隣人の姿をみとめ、この大きなシャツ一枚を羽織っただけの男――おそらく下に何も履いていない――が、つまりは”そういう”人物なのだと確信した。

「こんにちは。ごめんなさい。べつに邪魔立てするつもりはさらさらなくて、本を返そうと思っただけなの。申し訳なかった。出直すことにします」
「いや、いいんだ。何も問題はないしたぶん誤解していると思う。こいつは俺の、」

ルートヴィッヒはめずらしくうろたえた様子で、普段より早口になっていた。半裸の男を後ろ手に押しやろうとするが、彼は巧みにその手をすりぬけ、なまえの顔を覗き込む。明るいブラウンの瞳が楽しそうに揺れている。綺麗な色だ、となまえは思った。

「なんだよなんだよ、ルートヴィッヒ、おまえガールフレンドいたの? なんで黙ってたのさー。俺に隠すことないじゃんかあ!」

大声でわめく男を、ルートヴィッヒがため息をついて制した。

「――友人の、フェリシアーノだ。こっちはなまえ。隣の部屋に住んでる」
「なまえ!お隣さんかあ、よろしく。かわいいねえ」

「ちょうどお茶の時間だったんだ」と手を引くフェリシアーノに、なまえは困惑しきった表情を浮かべた。隣人とは違う意味で、またずいぶん強引である。助けを求めて視線を上げるが、ルートヴィッヒはもう一度大きくため息を吐いて、かぶりを振った。そうして「とりあえず入ってくれ」と低い声で呟き、なまえを中へ押しやった。



 

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