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 「あなたって、もしや雨男?」

それはなまえなりの皮肉と冗談のつもりだったが、隣人には通じなかったらしい。彼はにこりともせず真顔のままで「どうかな」と答えた。

「知り合いに恐ろしいほどの晴れ男がいるが、その手の話には科学的根拠が一切ない」

何と答えてよいのか分からず、なまえは曖昧にうなずいてマグカップへ口をつけた。

 奇妙なことは決まって雨とともにやってくる。なじみのパン屋へ寄った午前中には、肌寒くも穏やかな天気が広がっていた。しかし今や、灰色の雲は大粒を滴らせ、ひょっとしたら今日は蛙でも降るかと思うほどの豪雨である。その結果、カフェでコーヒーを奢る計画は反故になり、今回はきちんと掃除されたなまえの部屋に、本日もいかめしい表情のルートヴィッヒが行儀よく鎮座するという事態が起きていた。

 どういうわけだか、なまえにはこの隣人がからむと自分の本意でない方向へ物事を転がす才能があるのだ。

「そういえば、あの本、まだ読めていなくて。もう少し借りていても?」
「構わない。俺も読み終えていないから」

ミドル・ティーンのカップルのごとく、会話は古びたゴムボールほども弾まない。今朝もパン屋の女主人に指摘されたが、たしかに、ふたりは少々不自然すぎるほど互いの私生活を知らなかった。さりとて、根掘り葉掘り尋ねることもしない。さながら”感覚”で互いを探り合う動物のようである。

 なまえはシュニッテンを口に運びながら、目の前でコーヒーを飲むルートヴィッヒをじっと観察した。ごつい体格の彼が座ると、いつも自分がくつろいでいるソファも小さく見える。あいかわらず場違いで、ちぐはぐな光景。けれども、こうして何度か顔を合わせるうち――なかば不本意な接点ではあるものの――ルートヴィッヒと”こちら側”との境界線は次第にぼやけてきている、となまえは感じていた。

 よほど神妙な顔をして食べていたのか、菩提樹の鉢を眺めていたルートヴィッヒの青い目が、気づくと自分へ向いていた。なまえはぎこちなく微笑んで、肩をすくめた。

「器用なんですね。てっきり、どこかで買ったものかと」
「趣味レベルの素人芸だがな」

本来ならお礼をするはずの相手に渡されたチョコレートのシュニッテンは、彼の手作りだという。つくづく意外すぎるにもほどがある。

「……ほんとマジで、ぶったまげ……」
「今何て?」

品のない呟きにルートヴィッヒが眉をよせたが、なまえは即座に「おいしいです」と云って誤摩化した。事実、甘さがコーヒーとよく合うし、見た目も素朴だが美しい。そう伝えると、ルートヴィッヒのしかめっ面もいくばくか緩んで見えた。

 「こんなこと、気を悪くするかもしれないけど」

フォークを置いて、おもむろになまえは口を開いた。雨はさきほどから強まったり弱まったりを繰り返している。窓に当たる音は小さくなっており、なまえの声が思いのほか部屋に響いた。

「実を云うと、ちょっと安心してたんです」

同じようにシュニッテンを食べていたルートヴィッヒが首を傾げる。同時にふたたび深く刻まれた眉間の皺を見て、なまえは一瞬ためらった。しかしすぐに、冷めたコーヒーを一口飲むと「あなたもものを食べるんだな、と分かって」と答えた。

「どういう意味だ?」
「おかしなことを口走ってるのは自覚してるから、聞き流してほしいのだけど。なんだか私、あなたが、そのう――」
「俺が?」
「人間、じゃないような気がしていて」

自分でも口にしたあとで、ひどくばかばかしくなった。おまえは一体なにを云っているのだ、ルートヴィッヒも同様にそう感じているのだろう。淡い青の目が見開かれたまま、すっかり固まっている。なまえは恐ろしく気まずくなり、「というのも」とすばやく手元のカップへ目を落とした。

「あなたが、あんまり綺麗なので」

 まるで天使さまみたいに。

 しん、と部屋が静まり返った。云い終えると、やっぱりやめておけばよかった、という猛烈な後悔がなまえの心の底からふつふつと湧いてきた。これでは侮辱ととられて怒りをかっても文句は云えない。ばつの悪さを覚えつつも相手の反応が気になり、なまえはちらりと目線を上げた。

「……ごめんなさい。失礼なこと云ったわ」
「いや」 

ふい、と横にそらされた顔の耳から首筋にかけて、白い肌が赤く染まっているのが分かった。

「女性に面と向かってそんなことを云われたのは、はじめてだ」

やけにぶっきらぼうな口調だった。伏せられた睫毛が揺れるのを、なまえはまっすぐに見つめた。照れている。あの隣人が、ルートヴィッヒがまるで可憐な少女のように――いや、実際は筋肉質のいかつい男なのだが――真っ赤になって、目の前で照れている。やはり彼とて人間なのだ、見たまえ、あんなにも見事に血が通っているではないか!

 なまえの頭の中で驚きと感心とがせめぎあい、思わず興ざめな質問が口をついてでた。

「つまり……男性にならあると?」
「そういう意味じゃない」

 雨はすっかりあがっていた。



 

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