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 なまえは耳障りなドアベルの音で目を開けた。頭がずっしりと重く、体がベッドから離れようとしない。昨夜は知人と会って、今日が休みなのをよいことに遅くまで飲んでいたのだ。ふたたびベルが鳴り、ようやく時計へ手を伸ばす。土曜の11時だった。

 荷物でも届いたのだろうか。ふらつきながらガウンをはおり、3度目の呼びだしに応えて玄関のドアを開けると、立っていたのはルートヴィッヒだった。

「おはよう。…………出直そうか」

なまえの脳はすぐに覚醒した。思いきり後ずさり、彼が淡い色の瞳をそらしたことに気がつくと、慌ててガウンの襟をあわせた。なまえは分かりやすくパニック状態におちいっていた。ドアと床とを交互に見やり、行き場のない片手を上下させ、思ってもみなかったことを口にした。

「30秒」
「は?」
「あのう――よければ、入って、待っててくださいな。やっぱり50秒ほど」

返事を待たず、なまえは寝室へ駆けだしていた。目についたものを引っつかんで身につけ、鏡の前でぼさぼさの髪をとかし、寝不足のひどい顔は見なかったことにして、最後にやっと呼吸を整えた。

 ルートヴィッヒは壁のそばに立ったまま、ポーカーをする犬の絵をしげしげと眺めていた。若干ラフな服装だが、やはり過剰にきちんとして見える。明るい室内で透ける金の髪が美しい。隣に比べればまだ生活感のある部屋にたたずむ姿は、やはり所在なく、ひどく浮いていた。こんなことなら掃除をしておくべきだった。まったくもって、この隣人には醜態をわざわざ晒すためだけに会っているようなものだとなまえは思った。

 待たせたことを詫びる言葉をかけると、ふりむいたルートヴィッヒはそっけなく、「まだ45秒しか経っていない」と答えた。なまえは思わず笑いそうになったが、真面目くさったその表情がジョークではないと告げていた。

「休日に起こして申し訳なかったな」

メモを残した夜からは3日がすぎていて、帰宅時間がまちまちのために遅れたことも、彼はていねいに謝罪した。なまえは首を横にふり、洗濯したシャツの入った紙袋を差しだした。

「ありがとう。鍵のことも助かったし、あらためてお礼をしたいのですが……」
「気にしなくていい。存外すぐに見つかったから」

予想のつく返答ではあった。なまえは、基本的に借りは作らない主義である。したがって、どうにかしてこのツケを帳消しにしたいところだが、そうスムーズに事が収まるとも思えなかった。――食事に誘うほど親しくもないし、会話の間がもたないだろう。相手はなまえにとってUMAなみに理解不能な存在であり、何をすれば喜ぶのかなど検討もつかない。そもそも、笑ったところすら見たことがない。

 なまえはあれこれ頭で考えながら、ふと玄関脇の棚へと目を落とした。陶製のボウルに入ったキーリングを見て、「そういえば」と口を開く。

「よくこれが私のだって分かりましたね。本屋、火曜は閉まってたのに」

手にとった鍵を見せると、なぜかルートヴィッヒはぎゅっと眉をひそめた。それからしばしの沈黙ののち、静かな声で「その青い生きものに見覚えがあって」と云った。

「いつか朝早くに廊下で、そういう……絵柄のついたシャツを着てただろう。ほかではまず見かけたことがなかったから」

なまえは鍵についたキャラクターを見下ろした。そんなことがあった気もするが(正確にはあれはパジャマである)、それにしても、よく覚えているものだ。名前の件といい、隣人に関心を払っていなかったのは実際は自分のほうなのでは、となまえは思いなおした。そうして、この無愛想なルートヴィッヒが――いまだにかなり謎めいた部分があるにせよ――少なくとも好意的な人物であると感じ、そんな自分自身に驚いた。

 ふいに、なまえは隣人へむけて、純粋ににっこり微笑んでみせた。それから、いわく”青い生きもの”が、ある方面ではとても有名な、猫をモチーフにした未来のロボットなのだと教えてやった。ルートヴィッヒはなまえをじっと見つめ、今までにないほど難しい顔でその説明を聞いていたが、そのうちに戸惑ったような表情になって、ひとこと「猫には見えん」と呟いた。



 

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