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 翌日、帰宅したなまえは、一階のポストに小さなメモが貼られていることに気がついた。『中を見るように』とだけ書かれてあり、その整った文字が示す人物は火を見るよりも明らかだった。なまえはメモを上着のポケットへつっこむと、ポストについているダイヤル式の錠を回しはじめた。

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 なまえは自室のベッドへ腰を下ろし、ペーパーバックを何気なくめくっていた。なくした鍵が無事に見つかったというのに、気分は晴れ晴れとは云いがたい。時計の針は22時をさしている。ルートヴィッヒはもう帰宅しただろうか、と耳をすましたが、隣室の音が聞こえてくるはずもなかった。
 
 「午前中に前庭の掃除をしていたら、鍵を持って帰ってきたよ。『直接は渡せないだろうから』と一度は預かったんだが、ふたりで考えて、ああすることにしたんだ」

「ポストに入れたのは正解だったろう」と大家は合鍵を返しに行くと、にこやかにそう語った。昨夜なまえが「自分で行く」と釘をさしたのに、彼は朝から例の本屋へ探しに行ってくれたらしい。もちろん、そうとは知らずなまえも仕事帰りに寄ってみたが、日曜でもないのに店はあいにくと閉まっていたのだ。

 すぐに礼を云いに、それからシャツを返すために隣室を訪ねると、ルートヴィッヒは留守だった。なまえは仕方なく彼に宛ててメモを書き、ドアの下へ入れておいた。今まであまり顔を合わせたことがなかったのだから、昨日がイレギュラーだったのだろう。――ほんとうに奇妙な夜だった。何もかもが急激に起こりすぎたし、処理速度が現実に追いついていなかった。彼が善人かそうでないかは別にしろ、自分のことをずいぶん軽薄で愚かな人間だとなまえは思った。

 ぱらぱらとページを繰るが、まるで集中できない。最近ベストセラーになったという長編ミステリ小説で、ルートヴィッヒから借りたものだ。なまえがまぬけにも誤って購入した最新巻の第二部は、代わりに彼の家へ置いてきたのだ。あの本棚にあった重厚な文学全集や学術書と、陰謀とサスペンスの織りなす大衆小説とが並べられるさまは、さぞかし珍妙なことだろう。この本は云うなれば”こちら側”のものであり、なまえの持つ彼のイメージとはあまりにも異なっている。ルートヴィッヒは、なまえの目には、つくづく矛盾に満ちた人物に映った。あんなふうに無機質な表情のくせ、ずいぶんと義理堅く、威丈高に見えて遠慮がちでもある。それは、べつの生きものが人間の”ふり”でもしているような、奇妙なアンバランスさを感じさせる。

 なまえは本をサイドテーブルへ戻し、ベッドに入った。目を閉じてしばらくの間じっとしていたが、落ちつかずに何度も寝返りをうった。唸りともつかない嘆息は塵のように舞い上がり、ぼんやりと天井に染みこんでいった。



 

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