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 入るなり投げてよこされたタオルで、髪から落ちる水分をぬぐう。ヒーターの温風が満たす室内の暖かさに、なまえはほっと息を吐いた。いつのまにか奥の部屋から出てきたルートヴィッヒが、黒っぽい布を差しだして云った。

「サイズが合わんだろうが、そのままよりはましだ」
「構わないでください、何から何まで申しわけないので……」
「洗濯室は向こう。乾燥機が壊れているから吊るしておけばいい。下はさすがに貸せないが」

湿った上着を奪われ、玄関脇のドアを指差される。おそらく先ほどと同じく、こちらが動くまで彫像のようにそこへ突っ立っているつもりだろう。こうなると、云われるままに従うしかない。ルートヴィッヒはなまえの操作法をすっかり心得たらしかった。そうでなくとも、親しくもない男性の家で一体何をしているのかと自問しながら、なまえはランドリールームでシャツを脱いだ。代わりの黒いシャツはやはり大きすぎて、首回りがかなり空いてしまうため、タオルを巻きつけて居間へ戻った。

 ルートヴィッヒはいなかった。他人の家をあまりじろじろ見るのは失礼だと知りながらも、同じフラットなのに雰囲気がずいぶん違う、こちらのほうが広々として見えるとなまえは思った。主の身なりと同じく、清潔で簡素な内装だ。壁によせられた本棚には写真立てがあり、この部屋で装飾品と呼べるのはそれくらいだった。ひどく褪せた写真に三人の子供が写っている。いちばん手前の子供は幼いルートヴィッヒに違いない。同い年くらいの女の子の小さな手を、恥ずかしそうに指先だけ握っている。後ろの少年はふたりより年上のようだが、どことなく面影がルートヴィッヒと似ている気がした。背後からドアを閉める音がして、なまえは写真から目を離した。

 こざっぱりとした服に着替えたルートヴィッヒが、ポットの乗ったトレーを静かに置く。「どうぞ」と手渡されたマグを、なまえは礼を云って受けとったが、すすめられたソファは履いているジーンズが濡れたままだからと断った。

「それから上着の中にこれが」
「……ああ、どうもありがとう。すっかり忘れてた」

なまえは携帯電話のディスプレイをチェックして、「どうやら無事みたい」と独白のように呟いた。そうしてふたりはしばらくの間、テーブルの脇に立ったまま、黙って紅茶を飲んだ(コーヒーではなくフルーツティーなのは意外だった)。ほどよい熱が体内をめぐり、安心とともに疲れがどっと押しよせてくる。ほんとうに思っていたよりも、体が冷えきっていたらしい。

 「明日になったら」

沈黙を破ったのは、ルートヴィッヒだった。

「あの本屋を訪ねてみる。落としたのがあそこなら、店の誰かが拾っているかもしれない」

ルートヴィッヒの無表情が、ほんの少しだが緩んでいるように見える。なまえは一瞬、そのわずかな変化に面食らって黙ったが、すぐにぎこちない笑みを作って「自分で仕事の帰りに寄りますよ」と首をふった。ようやく血液が頭のほうへも回りだしてきた。――隣人は、悪い人間ではなさそうだ。少なくとも、今のところは。だからこそ、この状況はあまり褒められたものではないとも思う。しかしルートヴィッヒは涼しい顔で「ちょうど用事があるから」などと嘘か真か分からないことを云い放ち、なまえが口をはさむ間もなくたたみかけるように「ほかに何か損害は」と問うた。

「――損害? ええと。ほかには、特になさそう」

反射的に、ソファの横へおろしていた鞄を確認してしまい、なまえは心の中で悪態をついた。巧みな誘導尋問でも受けている気分だ。こんなにも自分は、他人に流されやすいまぬけだったろうか。これ以上へまをやる前に意志を伝えなければ、となまえが顔を上げると、相手もまた目を細めてこちらをじっと見下ろしていた。淡い色の瞳が投げ落とされているのは、なまえの手元にある皺のよったペーパーバックだ。

「大事な本ってわけじゃないわ。話題書だったから、ちょっと買ってみただけで」
「ミステリは好き?」
「……嫌いではないけど。おもしろいんですか、これ」

ルートヴィッヒは質問に答えずに、くるりと向きを変えると、恐らくは寝室であろう奥の部屋へ消えてしまった。いきなり取り残されたなまえは、あっけらかんとした顔で彼が消えた空間を見続けていた。

「まあ、よくある娯楽小説の類いだが」

すぐに戻ったルートヴィッヒの手に、自分が持っているものとよく似たペーパーバックがある。

「内容はなかなか悪くない。それから、読むならまずこちらが先だ」

彼が差しだした本には、不穏なイメージでレイアウトされた題名とともに、でかでかとした文字で『第一部』と表記されていた。ぽかんと口を開けたままのなまえが、何秒か後にようやく我に返って世にも情けない表情を作ったのと、ルートヴィッヒが残したらしいドアの張り紙を見て鍵を開けにきた大家がドアベルを鳴らしたのは、ほぼ同時のことだった。



 

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