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 品の良い紳士傘はじゅうぶんな大きさだが、大人ふたりが入るのに余裕があるわけではない。どちらかへ傾けられる以上、もう一方のコートの肩は濡れ続けることになる。自分よりずいぶん背も高く、体格のいい相手ならばなおさらだ。なまえはできるだけ身を縮めて、許せる範囲で体を近づけた。もちろん、妙な意図などない、と心の中で訴えながら。

 車通りの激しい道を避け、せまい路地を歩く。ほぼ会話らしい会話もないまま、響くのは雨音と、遠くからかすかに聞こえる車のクラクションだけだ。フラットまでの数分、あるいは十数分がこんなに長く感じられたのは、なまえにとっては初めてだった。

 隣人へさりげなく視線を泳がせるたび、使い込まれた傘の柄にある『L』のイニシャルが目に入る。歩きながらなまえは、彼の名前がルートヴィッヒであることを思いだした。引っ越して初めて顔を合わせた日、手短な挨拶とともに名乗りあったのだ。なまえは今の今まで忘れていたが、どうやら彼のほうはそうでもなかったらしい。

 *

 フラットの前で改めて「ありがとう」と礼を云い、今度何かお返しをさせてほしいとなまえは告げた。ルートヴィッヒはにこりともせず、「大したことでもない」と肩をすくめたが、人に借りを作るのは好きではないからとなまえは粘った。古いフラットの廊下を歩きながら、コーヒーでも奢ろうかという提案とともに、濡れそぼっている鞄へ手をつっこむ。指先が冷えていて、触れた何もかもが別物のようになまえには思えた。

「どうかしたのか」

おかしい、と上着やスカートのポケットを叩いてみる。不審な動きをしているなまえを、隣のドアを開きかけたルートヴィッヒが訝し気な目で見ていた。

「部屋の鍵が見当たらなくて」
「本当に?」
「ええ」

落としたのであればあのときだ、と最悪な推理が頭をよぎる。なまえはこの世のすべてを呪ってやりたくなりながら再度鞄の中をかき回すが、見込みはなさそうだった。

 ルートヴィッヒは一度うなずいて「待っていろ」と云うなり、さっさと階段を下りて行った。一階に住む大家を呼びに行ってくれたのだろう、そう気がついたのは数秒後だった。なまえが呆然としながら遠のく足音を見送ると、小さなくしゃみが二回出た。


 ほどなくして、ルートヴィッヒはひとりで戻ってきた。

「鍵、借りられました?」
「買い物に出るとメモが貼ってあった。あと一時間もすれば戻るだろうが」

その返答になまえは落胆し、いよいよばかげた失態をしでかした自分を呪った。鍵を探しに戻ろうかとも考えたが、雨脚は弱まるようすもない。雫が廊下のガラス窓を叩く音が、うるさいくらいだった。ルートヴィッヒはずんずん歩いて来て、そんななまえの前を通りすぎると、隣室のドアを開けた。

「とにかく体を乾かすのが先だ」

あいかわらず無愛想に、だが不自然なほど訛りのないドイツ語で、ルートヴィッヒはそう云った。入れ、と暗に促され、なまえはたじろいで首を振った。ひとつは単純に借りを大きくしたくないという遠慮から、もうひとつは、いくら隣人とはいえさほど親しくもない男性の家に入るのに抵抗があったからだ。なまえは、ありがたいけれども、とその申し出を丁寧に断った。

「ご親切には感謝します。でもあなたに責任はないし、そこまでしてもらう義理もない」
「……肺炎にでもかかったらどうする」

ルートヴィッヒは、ぎゅっと眉をひそめてこちらを見ていた。心配、というよりは単純に、批難のこもった眼差しだ。少し腹を立てているようにも見えた。

「それに、ずぶ濡れになった廊下の修繕請求書が届くかもしれないな」

冗談かそうでないのか分からないことを真顔で放つと、そのうちドアを半開きにしたまま、壁にもたれかかった。それは、なまえが廊下で大家の帰りを待つのならば自分も道連れにすべきだ、という挑発めいた主張に他ならなかった。親切なのか強引なのか、冷ややかでよそよそしさのある彼にはおよそ結びつかないものだ。我慢大会に負けるつもりはなかったが、それはあまりにも不毛な争いでもあった。

 頑固な隣人の一面を垣間みたなまえは困ってしまって、苦笑を浮かべるしかなかった。今日は初めて経験することがずいぶん多い日だ、と思いながら。



 

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