初めてドアの前ではち合わせたとき、ずいぶん綺麗な人が住んでいるのだな、となまえは驚いたものだった。外のダストボックスへ運ぶゴミ袋を両手に抱えていたのに、どこか非日常的な存在感が漂っていた。身なりがあまりにも、整然としすぎていたせいかもしれない。サイズのぴったり合った清潔なスーツに、憂いをふくんだ固い表情は、どちらかといえば近寄りがたい印象を抱かせた。実際、彼が越してきた住人とにこやかに話をするタイプでないことは確かだった。たまに「おはよう」と挨拶をしたり、階段で「失礼」と声をかけ合ったり――なまえが今のフラットに移って3ヶ月は経つが、交わした言葉といえばそんなものである。姿を現す時間そのものが不定期なので、顔を合わせる回数自体は数えるほどだ。
はじめこそ、謎めいた隣人についてあれこれ考えをめぐらせもしたが、忙しない生活に埋没してゆくにつれて興味も薄れた。時間を経ても変わらない相手の態度から、わずかではあるが”詮索してくれるな”という牽制めいたものを感じたし、お世辞にも社交的な性格だといえないのは、なまえにしても同じだったからだ。もとよりなまえは、部屋の中で死体を切り刻むサイコパスでなければ隣人など誰でもよい、とさえ思っているクチである。
そういうわけで、壁を隔てたすぐ向こうに隣り合っていながら、ふたりは交わることのない世界をそれぞれ生きていたのだった。
保たれていたかに見えた均衡が脆くも崩れ去ったのは、ある雨の日のことだ。
帰り道で雨に降られたなまえは、たまたま入った書店で時間をつぶしていた。すぐに上がるだろうとあたりをつけていたのだが、予想は見事にはずれ、待てば待つほどに雨は激しくなる。そろそろ店員の視線も痛くなってきたところで、なまえは平積みされている適当なペーパーバックを一冊購入し、店を出た。この寒い時期に尻込みするほどの雨脚だったが、タクシーを拾うほどの距離でもない。このまま走って帰るつもりだった。
降りしきる雨粒に身を晒したとたん、なまえは、横から歩いてきた人物と出会いがしらに衝突した――いや、衝突というよりは、引きとめられた、と表すほうが正しい。こともあろうか相手はなまえの名前を呼び、反動でよろけた体をとっさに支えたのだった。しかし反射的に身をよじったなまえはバランスを失い、鞄の中身を路上にぶちまけるという愚挙をしでかした。
「Oh Weh, Scheiße!(何てこと、クソったれ!)」
飛び出す悪態に、相手は顔をひきつらせた。しまった、と思ったが、なまえはすぐさま我に返って地面にちらばる手帳や本の上へかがみ込んだ。相手も同様に、淡々とした手つきで路上のものを拾いあげる。雫の滴る品々を受けとりながら、なまえはそこでようやく、フラットの隣人としっかり目を合わせた。
「拾ってくれてありがとう」
「いや、急に声をかけてすまなかった。これで全部だろうか」
「だと思う。今帰りですか?」
いかにもまじめくさった顔で頷く男は、黒い傘の下ではなおのこと、表情が固く、冷たく見えた。こんなふうに外で顔を合わせるのは初めてだ。それから、彼が自分の名を口にしたのも、なまえの記憶のうちでは初めてのことだった。恐ろしくきれいな発音に聞こえた。
「壊れていないか確認した方がいい」
「何?」
「電話を」
「ああ、そうですね。家に着いたら……」
なまえは何だか気まずい心地で彼から目をそらし、濡れて鬱陶しく額にはりつく前髪を撫でつけた。呼び止めたわりに、相手は突っ立ったままでこちらに傘を差しかけている。まばらに道ゆく人々が、迷惑そうに二人をよけてゆく。雨は勢いを増し、傘に当たる水滴の音は次第に大きなものとなっていた。
ちらりと相手を見上げ、「それでは」と手短に礼をのべて立ち去ろうとするなまえの上に、傘の影がふたたび伸びてきた。
「入って行かないか」
なまえはもう一度、せっかく拾った鞄の中身を落とすところだった。呆気にとられた顔を上げると、相変わらずの堅苦しい表情だが、困惑の宿った淡い青の瞳が、じっとこちらを見下ろしていた。
「今から帰るのなら。もし良ければ」
「……それは、つまり、傘に入れてくれるということ?」
彼は強ばった顔でうなずいてから少し考えて、「ほかにどんな意味が?」と眉根をよせた。