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 会わずにおこう、彼の中に住みついた”きまぐれ妖精”が出てゆくまでは。
 それは『しばらくの間』を意味した。少なくとも今週は、いや、来週まで顔を合わせたりしない。電話にも無視を決めこんでやる。だってあれは冗談にしたって、ずいぶんとタチが悪いもの。

 検討のすえに築いた意志の砦を、フランシスさんはものの15時間後にあっさり陥落させた。

 「アロー。恐るべき寝癖のおじょうさん」

寝不足の頭とともにベッドから這いだし、やっとのことで玄関にたどりついて、それが郵便配達でも宗教の勧誘でもなかった場合にはどうすべきか?
 買い物袋をかかえて現れた彼を、半分ほど閉じかけた目で認めると、ようやく私は「なんなの」と口を開くことができた。

「うん、朝飯作りに」
「……あさめし……」
「昨日アボカドのブルスケッタ食べたがってたろ。キッチン貸りるよ、顔洗っといで」

日曜の早朝とは思えない爽やかさで云うが早いか、彼はそのままキッチンに籠城した。勝手知ったる他人のアパルトマン。そりゃ私だって、彼の家のペーパータオルの替えがある場所を知っているけれど、起きしなに急襲だなんて不躾なマネをしたことはない。彼だってなかったはずだ、私に対しては。今までならば。
 鏡の前で立ちどまり、恐るべき寝癖を見る。ただちにベッドへもぐりこんで寝直すつもりだったが、思いとどまり、私はのろのろとバスルームへ向かった。廊下はバターの焦げるいい匂いがしていた。


* * *


 「ああ……そういえば、昨日のお茶代を払い忘れました」
「俺に奢らせる天才のくせに。まあ、ほら、食べなさい。うまいだろ?」
「非常においしい」

バジルと茸が入ったオムレツと、昨日食べるつもりだったブルスケッタは、ぼんやりした頭で食べるのにはもったいない。
 だけれどこれは一体、どういうわけなのか。私はありがとうと素直にお礼を云ったが、この状況に納得しているわけではないのだ。

「どうしたも何も、おまえが逃げる前に云ったじゃない。本気出すことにしたの」

フランシスさんは言葉にそぐわぬ呑気さで、マグに入った緑茶を飲んでいる。絹束のような髪の毛を、恐らくソファに転がっていたのであろう、私のウサギのついたゴムでくくっていて、それすら見事に彼を形作る要素と化していた。
 伸びかけた髭も、襟元がゆるいシャツも、彼をとりまくすべてが私のせまいアパルトマンの中で一点美しく、甘い雰囲気を作りだす。とたんに自宅のキッチンが、映画のセットか何かのような気さえしてくる。彼はそういう人なのだ。

「フランシスさん」
「なあに」
「私のことが好きなの?」

一呼吸おいて、Oui、と彼は答えた。そうだよ、好きだ。私は開かれたその碧い目を直視できなかった。
 ラジオはコラムのコーナーが終わり、音楽が流れはじめていた。曲調は軽やかなのに、それはどこか陰鬱な詞の歌だった。

『残念ながら、その冗談はちっとも笑えないよ。笑い飛ばせたらよかったけれど、君が思う以上にあからさますぎて……』

タイミングが、できすぎだ。嫌がらせかよ!地元のしょぼいラジオ局め。DJに苦情の電話を入れたくなった。私はお行儀悪くテーブルに頬杖をつき、ほうれん草のソテーをつつき回して、フォークを一度置き、やっぱり持って、お皿に乗っているものをすべてきれいに食べてから、食器をそっと脇によけ、最後にラジオのスイッチを切った。

「……真顔でこっち、見ないで。本気にされますよ」
「どうぞ。本気にしてよ」
「考えたこともないのに?」
「じゃあ今考えろ」

彼の指先が私の髪に触れる。逃げるひまがなかった、という弁解はしないでおこう。きれいだがやはり男らしい掌は、上方へ跳ね散らかした髪の毛をゆっくりゆっくり滑る。わざとらしいほどやさしく、同時にいやらしい手つき。もしかして、恋人に触れるときはいつも、彼はこんなふうなのだろうか?
 そう思うと、なぜだかひどく悲しい気持ちがした。

「こんなの、ばかみたい」
「いいじゃないの。ばかみたいなの」

俺好きよ、そういうの。耳のうしろをくすぐるように撫でられて、私は彼の手からさりげなく身を引き離した。動揺したくはなかった。

「あなたが本気で好きになる要素が、私にあると思えない」
「あらら、心外。俺の価値観まるごと否定された気分だなあ」
「そういうことじゃないんですよ、分かるでしょ!私あなたのこと好きだし、一緒にいて楽しいけど、あなたは近所の仲よしのお兄さんで、お茶飲み友達で、それでバランスが釣り合っていたのよ」

ふうん、とフランシスさんは溜息を吐いた。

「釣り合うとか、釣り合わないってのはさ。おまえが勝手に思ってるだけでしょ? そんなこと誰が決めたの」

きまぐれ妖精はなかなかに手強い。私は短く唸って、額にかかった前髪をかきまぜた。せっかく撫でつけらて揃っていた毛並みが、あっというまに秩序を失う。一体どうして、こんなことになってしまったのだろう?

 そのとき、とつぜん軽快なメロディが響いた。神様なりのヘルプだったのかもしれない。

 光明とばかりに椅子から立ちあがりかけた私の腕を、とっさに彼が掴んだ。でんわが。そう声を出しているはずなのに、喉に風穴でも開いたように、か細い音しか聴こえない。決して強く腕を握られたわけではないのに、すっかり動けない。
 目眩がする、汗がふきだす、恥ずかしさで気が遠くなりそう。
 逃がしてやるもんか。彼は私をまっすぐに見上げて云った。双眸が、磁石のようにかち合ったまま停止する。

「お兄さん、けっこう必死なんだけど」

これ以上近くに身を寄せられて、触れられて、彼の声でなにかを耳に囁かれてしまったら。真剣味をおびた今までにない声を、聞いてしまったら。切実な瞳を見てしまったら。
 せっかく食べた朝食が逆流する。まちがいなく。

「なまえ」
「……電話」
「好きだよ」
「少し待って、」
「好きだ」
「だまれ……!!」

そしてまたしても私は、フランシスさんを思いきりぶん殴ったのだった。

 「痛い!」と悲鳴をあげる彼を置き去りに、そのままキッチンを横ぎり、玄関にかけてある上着の中で流れつづけるビートルズの『HELP!』を停止させた。相手の確認もしないまま、携帯を耳に当てる。

『遅えんだよ!おいなまえ、おまえ俺のローゼズの12インチまだ持ってんだろ』

挨拶もなく不機嫌そうで、しかしこの歯切れのよい話し方をする人物を私はひとりしか知らなかった。この場から抜けだせるのならばなんでもいい。
 私は上着をひっつかむと、そのまま家を飛び出していた。



 

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