人間が嫌いだった。そういうわたしも人間だけれど、この際無視する。見つめられたら心まで見透かされそうで、触れたら触れたところから壊れてしまいそうで。怖かったのだ、人間と関わることが。きらきら笑う笑顔の裏には何があるかなんて考えたくもない。一人が好きなんじゃない。他の人といっしょにいたくないだけなんだ。

「あれ、居残り?」

手に持っていたペンを落としそうになる。だって、この時間には誰もいないはずなのに。ゆっくりノートから扉の方へ視線をやる。立っていたのはジャージ姿のクラスメートの音無さんだった。さあっと身体中から血の気が引いてゆく。嫌いな、女の子。いつもへらへらしてて何を考えているかわからない。わたしはいつも他人の心が読めたらいいのに、なんて思っている。そしたら思いっきり嫌いになれるのに。

「びっくりした、人がいるなんて思っていなかったから」
「…うん」
「忘れ物しちゃったんだ」

ふうん、とつまらない言葉を返してまたノートを見つめた。わたしはただごそごそ机の中を物色する音無さんに早く出ていってほしいと願う。一秒一秒がとてつもなく長い。「あった」と喜ぶ音無さんに良かったねと返す。出ていくかと思ったら近づいてきて、わたしは気を失いそうになってしまった。

「勉強?」
「宿題」
「ああ、国語の!確か明日までだったよね」
「うん」

大変だね、と笑いながら音無さんはわたしの前の席に座った。がつん、と鈍器で殴られたような衝撃に襲われる。何で!目を丸くするわたしに音無さんは手伝うよ、と笑いかけてきた。

「い、いいよ。部活の途中でしょ?」
「大丈夫、マネージャーは三人いるから」

そういう意味じゃなくて、わたしは音無さんに出ていってほしいんだよ!そんなこと言えるはずもなくわたしはあ、うんと曖昧な返事をした。音無さんは珊瑚色のペンを取り出してプリントを埋めていった。何の前触れもなく起こった出来事にわたしはただただ驚くことしか出来なくて、動く音無さんの手を見つめていた。どきどき忙しない心臓を無視してわたしもペンを走らせる。グラウンドからはサッカー部や野球部の大きな声が聞こえてきて耳を塞ぎたかったけど音無さんがいるから我慢した。 沈黙が続いたけれど、気にならなかった。別に、音無さんにどう思われようがどうでもいい。暗いやつって思われようが、気持ち悪がられようがわたしは気にならないのだ。ひたすらプリントとにらめっこしていたけれど、不意に音無さんが口を開いた。

「あなたって、わたしのこと嫌いだよね?」

小さく心臓が跳ねる。困ったように、へらりと笑う音無さんに言葉を無くしてしまう。何でだろう。態度に出ていたのかしら。じゃあ、みんな気付いていた?ちっちゃな脳みそでぐるぐる考えを巡らせる。音無さんはそんな話を振ってきたにも関わらず手を動かすのをやめない。どうすればいいのかわからない。どういう反応をすればいいのかわからない。そんなことないって言えばいいのだろうか。でも実際、音無さんに関わらずみんなのことが嫌いだ。取りあえずわたしは手を動かす。自然に口が動いてしまった。

「嫌いだよ。いつもへらへらしてて意味わかんない」
「そうかな?自分では気付かないものだね」

音無さんの言葉に少なからずわたしはいらついた。自分では気付かないって、それが日常になってるからでしょう。ペンを持っている手が汗ばんだ。字が壊れてゆく。さっきとは比べ物にならないくらいの冷たい沈黙。また、それを破ったのは音無さんだ。

「本当に、嫌いなの?」

音無さんが何を言ってるのか分からなかった。本当に嫌いなの?って、当たり前じゃない。そう口を動かそうとしたけど動かせなかった。ぱちぱち、瞬きを二回する。目が乾いて、また瞬きをした。音無さんは相変わらず笑っている。言葉が、溢れてくる。わたしは、人間を「違う、わたし、嫌いじゃ、ないよ。嫌いじゃない、の」嫌いになりたかっただけなんだ。

「うん」

知ってるよ。


それでもいいの/